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築山山水の法 [歴史]


  
真山天地人之図.JPG  
  真山天地人の図

行の山水肉山ノ図.JPG
  行の山水肉山の図

真ノ山水立石ノ図.JPG  真の山水立石図


山水の法1.JPG
  山水の法1


  山水の法
一、山水は正面の奥に立る石あり、之を主人守護石と
  云う、此石を定め、後に山を築き木を植るなり、此れ守護
  の下に蓮花石を立つべし

一、瀧口に石を立つる、之を瀧副の石と云う、其左右に童子
  石を立つべし、或は八つ、四つ、二つなるべし、之瀧副石の
  下の石なり
    右何れも石の名なりは作者の好に依るべし

一、山水の中央に嶋を作るあり、之蓬莱山を表する也
  故に其形亀の如し、石は鬼頭石一つ、両石、両脚
  石、尾崎石と甲石に以上の六石を之立方大事
  なり、必ず松を植るべし、若し木を植ざる時は亀形の石を
  立つべし

一、山水の前の両端には必ず二神石を立つべし、之を二柱石
  と云う、石の形に依り二つ、又三つ石を副る事、作者の好み
  に依るべし

一、瀧口石に水受の石、渓副の石、波分の石、水分の
  石あるべし、山水の内にて瀧口のあしらい別て大事也

一、山水に橋を掛る事、河裾又は中ほどに有るべし瀧口に橋
  掛る事なかれ、但し大なる山水にて瀧の上に高山など有
  て之に枯木等を以て渡す事有り、之は猿など傳ひ行く道
  の心に用ゆるなり


山水の法2.JPG
  山水の法2

  
一、河裾を水吐とも云うなり、瀧口南に有らば水吐は北也
  河すそを従多流とも云うなり

  河裾の石の名は

   一、水除の石    一、落水石

   一、浪受の石    一、塵流石、

   一、木の葉返の石  一、水門石  等なり

一、山水の両端に必ず嶋二つ有り、端近き嶋を客嶋と
  云う、之に客拝石、對面石、履脱石、鴎宿石、
  水鳥岩有り
  同じく奥にある嶋を主人嶋と云う、之に安居石、腰息石、
  遊居石等なり

一、主人守護石の前には必ず礼拝石あり、石の大小に依り
  一つ二つ三つも有り、此守護石は本名三尊石と云う
  此石の背に山あり、若し山を用ひずは木を植べし

一、左右に限らず奥の高山には山頂石、山腰石、嶺脚石、
  慶雲石、霧隠石、晴月石、月陰石(月呑石とも云う)等なり
  を呑影石とも云う、之は西山に用ゆ、吐影石之は東山に用ゆ
  山の頂に有るべし

一、諸石の多少は真草行に依るべし、山間に木の下に定座
  石あり之別て秘石なり

一、石橋には必ずハシ挟みの石四つ有るべし、又所に依りては三つ
  二つも有り、水際の石を遊魚陰と云う、下の透たるを
  立ること習ひなり
 

山水の法3.JPG
  山水の法3


  立石名の事

   一、鴛鴦石(水中に有り)  一、水禦石(河すそに有り)

   一、瀧副石(峯に有り)   一、垂釣石( 同上 ) 

   一、盃帯石(嶋に有り)   一、筆架石( 同上 )

   一、怒涛石(水先に有り)  一、硯用石(路又は嶋に有り)

   一、虎豹陰石(谷に有り)  一、虎渓石(山路に有り)

   一、豹陰石(山路に有り)

  立石陰陽の事

一、高く立たる石は陽なり、瀧口は水を主とするに依りて陰石也
  之を高く瀧口の石を立る事陰陽和合の心なり
  横なる石は陰なり、草木の類も竪を陽とし、横を陰とす
  不立不臥の石は陰陽和合の石也
  又川除の石は多数あり共名石の数には入らず

一、山水嶋の名の事は吹上の嶋、浪寄嶋、打寄嶋
  中嶋、客人嶋、主人嶋、山下濱、洗浪
    右嶋毎に石あり

一、大なる山水の山陰、谷間、田圃などの心有るべし、又川裾に
  用る事も有り

一、汐濱の心を用ること、此濱に立石すべからず、汐干潟には何
  れも石なければ也、又入江の体にする時は芦、杜若、菖蒲
  などを植るなり
 
山水の法4.JPG
  山水の法4 


  樹を植る心得の事

  一、棕梠、南天、五葉、松、柏、槙
   
     嶋に此類を用るべし

    杉、枇杷、檜、白檀、椿、柊、石楠花
    密柑、桒

     右何れも常磐木類は峯の物とす、築山なり平地なり
     此其植る場所を山嶺と心得べし

    芝蘭、紫苑、菊、ギボウシ、芍薬、等の類は
    嶋、谷間に用ゆべし
    クコ、葛、榧、楓、女郎花

     右は山に有るものと心得て植るべし 

    藜、芦 (嶋、山河に有なり)
    花丁子、栂、藤、百合  山なり
    蓮  沢なり

     其外名木名草は格別なり

    大概故實是等を以て考知べし

一、坪の廣狭あり、此左の図を考て地取を為し作るべし
  真草行に依り山も嶋も無き事有り横廣なり共
  奥深なり、此法に依り品格を趣向して作るべし


行山水立石ノ図.JPG
  行山水立石の図

庭坪地形取ノ図.JPG
  坪庭地形取の図

山水行中の草.JPG
  山水行中の草

草ノ山水.JPG
  草の山水

草の山水2.JPG
  草の山水2

草ノ草肉山.JPG
  草の草肉山

山水.JPG
    山水

草ノ草山水.JPG
  草の草山水

  都て石数の少き時は二神石を少し上て立ること習なり

一、山水造り方、公家、武家、寺社何れも等しと雖も
  武家の山水には九字を表するの習あり、石を四竪
  五横と立るなり、投掛たる石、三角なる石、片下りたる石、
  戸板の如き石等は四竪五横の石には非ず、是等は副石に
  用ゆべし、竪たる石四ツ、平なる石五ツなり、不立不臥石は
  竪横石に非ず

一、寺院の庭にも四竪五横を用ゆべし

呂律ノ事、九字十字ノ図.JPG
  呂律の事、九字十字ノ図

山水五大の事.JPG
  山水五大の事



一、律石は能く据りたる石を云う、若し欠けたる所には添石をして
  立べし、又脇の方にも石を副べし、威儀具足石を以て
  律とす
  呂は一つ宛二カ所三カ所に間五寸六寸或は一尺程退て切々に
  立置が呂なり、律は吉にして陽なり、呂は陰にして凶なり
  然し共陰陽の二つなれば万物出生する故に山陰などに立る
  なり

一、寺院等の山水に一つ秘事あり山の麓に木を植て
  其下に平なる石を居るなり、之を上座石と号す、客人嶋
  主人嶌に此石有るべし、有所最も大事なり、別に一所を
  構て居えべし

  山水五大の事

一、山嶋は地なり 海河は水なり 花樹は火なり
  諸木諸草枝葉の色空なり

  山水相性の事

一、新たに庭を造る時は其主の性を尋ぬべし

  木性は  東に山ありて西より向ふ吉
  
  火性は  南に山ありて北より向ふ吉

  土性は  中央定住なれば随意とす

  金性は  西に山ありて東より向ふ吉

  水性は  北に山ありて南より向ふ吉


 


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内出稲荷と三座宮(三座稲荷) [歴史]

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  内出稲荷と三座宮(三座稲荷)
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内出稲荷大明神

我が家で氏神として祀る稲荷様は、今から約250年前の明和6年(1769年)に伏見稲荷より

勧請しました。勧請した当時は飯能村内出(現在の飯能市山手町・飯能市立第一小学校南側)

に屋敷がありましたので、字名を冠して内出稲荷と言います。

勧請した時に伏見稲荷の正官御殿預荷田信郷(羽倉摂津守信郷)から発給された正一位稲荷

勧請証書、金襴包みの神璽、荷田氏に差し出した誓詞の控え等が伝来しています。

内出稲荷勧請証書.JPG

  伏見稲荷・荷田氏(羽倉摂津守信郷)の勧請証書 


稲荷社安鎮之證書  本官正官  
           羽倉摂津守

正一位稲荷大明神安鎮の事

 右雖為本官之奥秘依

 格別之願望略式修封

 之  厳璽令授與焉

 祭祀慎之莫怠也

   正官御殿預

明和六年十月豊日 正五位下行摂津守荷田宿祢信郷

   武州高麗郡加治領飯能村
        小山儀兵衛殿


内出稲荷神璽.JPG

  伏見稲荷の神璽


稲荷返書.jpg

  、荷田氏に差し出した誓詞の控え


 証文之事

一、正一位稲荷大明神御安鎮之儀、奉願候処、御修封被成下

  忝大悦仕候、御安鎮之儀ニ付、御公辺者勿論、於所何之

  差構無御座候、尤妊妄怪異之儀申触、迷信人群参等

  相催儀ニ而者曽而無御座候、且朝夕尊宗不可怠之

  状、仍如件

 明和六年              武州高麗郡飯能村
                      小山儀兵衛
  稲荷本山
    御殿預家           同郡中居村
      神役人中            代印清泰寺
       



その後、文化年間に飯能宿大通りの久下分村側に住居を移しましたが、祠は旧屋敷地に残し

内陣のみ移しましたので、その後は家の中で稲荷様を祀ってきました。


内出稲荷.JPG

  内出稲荷


内出稲荷・使い姫狐の親子.JPG

  使い姫狐の親子


紙で折られた御神体.JPG

  紙で折られた御神体


いつの頃か旧屋敷地の稲荷社は出世稲荷と呼ばれるようになりましたが、

天保13年完成の飯能村絵図の中では、大泉寺(明治初期に廃寺)の東側の八左衛門

(小山八左衛門)と書かれた所が旧屋敷地で、絵の中に稲荷社と鳥居が記されています。



天保13年飯能村絵図.JPG

  天保13年飯能村絵図


明治初年の飯能村の地図では、小山八郎平の敷地内に見捨地として高外7番,8番の

出世稲荷境内が書かれています。


明治初年飯能村地図.JPG

  明治初年の飯能村地図

出世稲荷お札.jpg

明治時代の出世稲荷大神のお札


その後、出世稲荷は明治41年7月7日に埼玉県知事の許可を得て、他3神社と共に飯能元

久下分村の村社久下稲荷神社に合祀しましたが、その跡地を大正15年に氏子、神主名で

大蔵大臣 浜口雄幸宛てに国有土地無償譲与願が出されています。

出世稲荷位置図.JPG

譲与願に添付した出世稲荷の位置図の控え(久須美の小林氏に土地を売却後)


出世稲荷.JPG

現在の出世稲荷


出世稲荷本殿.JPG

本殿(出世稲荷神社史より)

   高さ2.8m、間口77cm 使い姫お狐の一対(天保14年 小山氏)


正面唐破風.JPG

正面唐破風(出世稲荷神社史より)


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内出稲荷の分霊 太郎神と次郎神
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太郎稲荷大神

言い伝えによると内出稲荷の分霊として祀られた太郎神は、慶応4年(1868年)5月

に起きた飯能戦争(上野の彰義隊から分かれて結成された振武軍と官軍との戦い)の時に、

当家で亡くなった振武軍の隊士を祀った神様とのことです。

飯能戦争の激戦の中、戸主で久下分村の名主であった小山八郎平(国三郎)の舎弟源三郎

は避難せずに家を守っていたそうですが、その時に負傷した振武軍の隊士が「かくまって

もらいたい!」と言って当家に逃げ込んで来たそうです。

小山源三郎は急いで隊士を土蔵の中の穴ぐらに隠れさせたので、官軍による残党探索にも

発見されずにすみました。

然し、傷は深く、手当のかいもなく数日後に亡くなってしまったのですが、亡くなる前に

「この地の守護神になりますから、私が死んだら神として祀ってもらいたい!」と遺言を

残したそうです。

その当時は賊軍の隊士ですから公にはできず、その亡骸は当家の墓地(大泉寺)の中に

秘密裏に埋葬したということです。

そして、八郎平は亡くなった隊士の遺言を守り、内出稲荷の分霊として太郎神(太郎稲荷)

と名付けて隊士を神として祀りました。そして同時に対の神として次郎神(次郎稲荷)も

合わせた兄弟神としました。


太郎稲荷大神.JPG

太郎稲荷大神


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三座宮(三座稲荷)
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その後、太郎神、次郎神は伊豆大明神と併せて三座宮(三座稲荷)として三丁目に祀られ

ることになりました。


飯能郷土史(昭和十九年一月発行)の記述によれば

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入子稲荷

伊豆大明神(源義家後三年役にその戦死者をまつるという)の分霊を祀る。後明治初年に

内出より太郎神、次郎神を併せ配し三座稲荷といふ。境内の杉古く、古社である。

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三座稲荷絵図.JPG

三座宮(三座稲荷)絵図


三座稲荷.JPG

現在の三座宮(三座稲荷)


三座宮印.JPG

三座宮社務所印、三座稲荷世話人之印


この三座宮(三座稲荷)の創建には、小山八郎平の妻婦久の夢見が関係したそうです。

明治3年に18歳で八郎平に嫁いだ婦久はとても信心深く稲荷様を信仰していました。

婦久について書かれた記述がありますので転記させてもらいます。


※ 民族茶ばなし(はんのう文庫2)著者 小谷野寛一氏 昭和55年2月6日発行より抜粋

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いなり信仰

飯能市旧三丁目のいとさん(仮名)は今から七十年ほど前、高齢で亡くなったが、生前、

いなり様を深く信仰していた。というのは、いとさんがこの家へ嫁に来る前から、ここには

屋敷鎮守として、伏見から勧請したいなり様が祀ってあったので、その家風になじんで、

奉仕を続けたわけである。信仰といっても、人により家により、まったく様々だが、いとさん

の家の場合は、大変手厚いものだった。三百六十五日、朝晩のお燈明を上げ、季節にはお祭り

も行なった。

この家は、町での旧家でもあり、家運隆々たる中なので、損得ずくの信心と異なり、まったく

純粋なものであった。こうした清らかな信仰心が、神仏に感応する例はめずらしくないが、

いとさんの身辺にも、そんな雰囲気がただようようになった。そしてそれが高まると、放心

状態となり、なにか口走ったりした。家族は気味悪がったり、もっともだと思ったりしながら、

静かに見守っていた。

そしていつの間にか「いなり様が乗り移る」という言葉がささやかれるようになった。

このような状態になる日は、いとさんの目は朝から異様に輝き、言葉の切れがよいので、

家族にも、それとなく感じられた。

この一種の昂奮状態というか真空状態というか、そうしたおりに度々書いたものが残って

いるが、まったくふだんと違う書であった。知らないはずの文字を書いたり、筆勢もまるで

違っていて、同一人の書などとは、とても思えないものであった。


夢のおつげ

いとさんがある時期、同じような夢を続けてみた。それは、おいなり様の夢で、なんでも

多峰主山の裏あたりのいなり様が「山犬がこわくて仕方がないから、どこかへ移りたい」

というのであった。

その夢を見るたび、いとさんは発熱した。もっとも、いとさんにいなり様が乗り移る時は、

きまって熱が出るのだった。

この事はいとさんの口から家族に、そして懇意な人達に伝わっていった。

明治のいつごろの事か、三丁目に稲荷神社が勧請されたが、これについてははっきりした

事は直接の関係者にもわからない。三座稲荷といって、伊豆大明神と、太郎神、次郎神が

祀られているというだけである。いとさんの夢見がここにつながるのかどうかも、今、

調べる手当は無い。

三座稲荷の社殿工事が始まったころ、夜中によく木遣りのうたが、その方角から響いた。

三丁目あたりには、これを聞いた者がたくさん居て「ああ、今夜も狐が仕事の手伝いを

している」と話し合ったという。


狐のよめいり

またこのころ、朝日山からの峰伝いに、狐の嫁入りちょうちんを見た者は多いという。

試しに筆者も河原町や三丁目の老人をめぐってみたが、「前山の方に並んだちょうちん

を見た」「見たという話を度々聞かされた」「おじいさんが狐の嫁入りだ、というから、

こわごわ障子のすき間からのぞいたら、白いちょうちんが、五つか七つぐらい、遠くを

動いて行った」と話された。

三座稲荷の境内は今はせまいが、前には三倍もあって、抱え切れないような杉の大木が

立ち並び、近くに「指定地」もあって、ずいぶん盛ったものだという。

(本稿は小山次郎氏、入子昌雄氏に見ていただいた。)

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内出稲荷松竹梅神筆.JPG

内出稲荷松竹梅神筆


内出稲荷神筆2.jpg

内出稲荷神筆2


内出稲荷神筆3.JPG

内出稲荷神筆3


伊豆大明神筆.JPG

伊豆大明神神筆


太郎神筆.JPG

太郎神筆


次郎神筆.JPG

次郎神筆


記録.JPG

記録



婦久に稲荷様の霊が乗り移ったのは数年間でしたが、確認出きるのは明治7年から明治

30年頃です。乗り移った時は筆を口に咥えて字を書いたそうです。

内出稲荷、太郎神、次郎神、伊豆大明神が書いたものがありますが、内出稲荷が書いた書

には、明治7年87才と年齢が記され、狐の足跡のような印が押されています。印は自然に

浮き出てきたそうです。また伊豆大明神は260才と年齢が記されています。

稲荷様のお告げに反する行動が続いたために、もうこの家には来ないと告げられ、その後

は稲荷様が乗り移らなくなってしまったということです。

嘘のような話ですが、身近にいた人が信じていた事は事実です。

後に八郎平の孫が明治の末に生まれましたが、稲荷様から名前を頂戴して長男を太郎、

二男を次郎と名付けました。





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高麗橋の誕生と東京大宮道 [歴史]

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高麗橋(埼玉県日高市)の誕生と東京大宮道
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埼玉県日高市の高麗川に架かる高麗橋の最初のものは、明治34年の1月8日に開通式が

行われました。

これは、東京大宮道(秩父郡大宮町より飯能町、豊岡町、所沢町を経て東京府に通ずる県道)

改良工事に伴い高麗村大字久保、大字高麗本郷間の河流に架橋を設けたものです。

工事中の高麗橋 .jpg
  工事中の高麗橋

高麗橋の開通式 1.jpg
   高麗橋の開通式1

高麗橋の開通式2.jpg
   高麗橋の開通式2



この橋の開通に至るまでには、大きな難関が控えていました。

まず、東京大宮道の秩父から飯能の整備を巡っては、吾野経由(正丸峠越え)か名栗経由

(山伏峠越え)かで、埼玉県議会では意見が分かれ議論が白熱したが、最終的に明治28年

11月に吾野経由を一等道路に確定しました。

また飯能から高麗村の横手へ抜ける古道は、最短距離ではあるが、飯能愛宕山前より山に入り

沢筋を通り、一部トンネルもくぐり、両側に山がせまる薄暗く寂しい道であったため、大字台

を経て東吾野へ通ずる現在の国道二九九号とほぼ同じ道筋に変換すべく誘致運動が始められ、

飯能町、高麗村より埼玉県知事宛てに「道路資格変換願」が出され承認されました。

そして、明治32年測量、33年工事完了という早さで、現在の飯能秩父線は完成しました。

明治33年の小山八郎平氏の控え帳(東京大宮改良工事摘要誌)によると、当時の工事費の

概要は下記の通りです。


東京大宮道改良工事費

  飯能町地内  金六千七百七十四円九拾銭五厘

         内

         金壱千三百五十円也  一回下金  人夫五千四百人賃  壱人 金廿五銭

                    六月五日請求下付 委任者 田村重兵衛 

         金壱千円也      二回下金  八月廿日請求 田村

         金          三回下金  十月     同人

         金壱千円也      四回下金  十一月三十日請求 田村

  家屋移転費  金弐拾八円      岡野重太郎

  仮道費    金参拾四円五拾銭   下付請求 委任者 山崎兼三郎

  仝飯能町臺入會暗渠費  金弐百六拾四円九拾五銭六厘


東京大宮道改良工事費

  高麗村地内  金壱万四千六百廿弐円廿四銭弐厘

         内

         金参千五百円也    人夫壱万四千人賃  壱人 金廿五銭

                    六月九日下付  総代人 加藤房之助

         金参百円也      三月廿八日下付 総代人 山口幸吉

         金四千七拾八円七拾八銭五厘 八月十八日下付 代理 田村

         金             十一月五日請求 仝  同人


東京大宮道改良工事費

  東吾野村地内 金四千三百九拾壱円三拾六銭九厘

         内

         金壱千五百円     一回下金

         金壱千廿八円八拾九銭 二回下金 八月廿日下付請求


東京大宮道潰地金額

  飯能町地内  金壱千八百九拾弐円五拾三銭弐厘

  高麗村地内  金参千八百九拾九円六拾六銭七厘

         金参拾九円也  墓地移転

         金百六拾円也  井戸移転

         金       仮道費

 
  高麗村大字久保
              對岸
   大字高麗本郷

  橋梁架設費  金六千百弐拾六円四拾五銭弐厘

         内

         金壱千円  請求代理 谷島良朔

               橋材之内下金

         金弐千三百四十円五十五銭五厘  十一月五日請求 谷島




橋梁架設の準備としての用地取得は早く、大字久保側の土地は開通式より6年も前の

明治27年4月4日に関係者立ち合いのもとに地所売渡証を作成している。

売渡証1.JPG

売渡証2.JPG


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戦前、戦後の教育 [歴史]

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発表者 元 川口第一国民学校(現 本町小学校) 訓導 小山次郎
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第三回 (昭和55年)

狭山・戦災の頃をしのぶ夕べ

体験発表全録音・その二

会場・狭山市広瀬神社社務所

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 みなさん今晩は。今日は、意義の深い会にお招き頂いたんですが、主旨に合うようなお話

 が出来るかどうか、まことに疑問でございますが、その点は一つご寛容の程お願い致します。

 こちらに参りました時、ちょうど映画の最中だったんですが、只今の映画は、だいたい昭和

 20年の1月、2月、3月頃の場面のようでありました。

 私が教えた生徒の中に、一番頼もしいと思っていた植木太郎という少年がいたんですが、

 その場面の時から一月後の4月15日にレイテ方面で壮烈な戦死をしてしまいました。

 今の映画を見ながらも、感無量でございました。

 それから、ここに「義勇」と立派な字で書かれております平野常造先生、この方は、私が

 大正15年に19歳で飯能の第一小学校の代用教員になったんですが、最初は吉川与一先生が

 校長でしたが、途中から平野先生と交代になりまして、後半は平野先生のお世話になりま

 した。そして、師範学校を卒業すると、また飯能へ呼んで下さるように随分お骨折りいた

 だいたんですが、北足立の視学の引力が強くて、川口方面へ引っ張られてしまいました。

 昭和の初期から31年まで、26年半ばかり、川口で過ごしたわけでございます。

 私が川口に赴任しましたのは昭和4年の秋でしたが、その頃は不況のどん底でして、

 世界的に大不景気でありました。

川口-01.jpg

川口-04.jpg

川口-08.jpg

川口-17.JPG



 どこの国でも軍備にあまり金がかけられないので、出来る限り軍備を縮小しようという

 「軍縮会議」というのが行われまして、日本も参加しましたが、大国に対して、

 例えば十に対して六ぐらいの軍備しか持てないということで、青年将校が非常に憤慨を

 しまして、色々な事変が起こったわけであります。

 川口という所は、戦争があると軍需景気で膨れ上がってくる町でありますが、昭和6年に

 満州事変、それから7年に上海事変、さらに8年には日本が国際連盟を脱退するというよ

 うに、日本がだんだん孤立して緊張の時代になってまいります。

 その頃から、教育の面では日本精神とか、或いは国体論というものが非常に強くなって

 来まして、だんだんと張り切ってまいりました。

 昭和12年になりますと、ご承知のように日華事変、当時は日支事変と申しておりました

 が、これが起こりました。

 私の兄も7月に動員され、8月に内地を出て北支の方へまいりまして、あくる13年の

 3月31日には山西省の方面で戦死をしてしまいました。

 兄の遺品が帰ってまいりまして、その中に戦闘帽がありましたので、その戦闘帽を被って

 毎日通勤をするというようなことでした。

 その頃から、少年団の訓練等がだんだん盛んになってまいりました。

 昭和15年には起源二千六百年のお祝いがありましたが、16年になりますと「国民学校

 令」、それまでの尋常小学校とか尋常高等小学校とかが「国民学校」と言われるようにな

 りました。

 国民学校の目的というのは皇国の道に則って、つまり「すめらみく」の道に則って皇国民

 の錬成にあるわけです。従いまして、国体観念の下に、日本の国体を護持していくのに適

 するような人間を鍛えるのが教育の目的であるという風になってまいります。これが昭和

 16年の4月です。

川口-16.jpg


川口-13.jpg

 そして同年の12月には英米に対して宣戦の布告ということになりまして、いわゆる

 「大東亜戦争」、第二次世界大戦に入ったわけであります。

 あくる17年の4月18日には、最初の空襲の洗礼を川口は受けました。

 川口はピストンリングとか、ディーゼル工業とかいう大きな軍需工場がありましたので、

 このディーゼル工業が、まず艦載機の爆撃を受けました。

 私どもはその時、何だか解らなかったんですけれども、何か騒々しいなと、まさか空襲

 とは思っていなかったんですが、学校の裁縫室へ戸板に乗せられた血だらけの工員さんが

 どんどんと収容されてきた。

 「何があったんだ?」
 
 「爆撃をうけたんだ!」 ということで、初めて知ったんですが、あれは日本の空襲の中

 では最初ではなかったかと思います。

 その頃から益々、学校教育も張り切ってまいります。特に昭和19年の3月には「学徒動

 員令」というのがあります。前年の18年には、学生の徴兵猶予が解除になりまして、

 学生でも徴兵年齢になれば、どんどん入営して戦地に行くことになる。

 19年に、今言った「学徒動員令」が出されまして、戦争目的のためだけに教育はあるん

 だと、こういう時代になりました。

 従って、もう小学生でも(国民学校初等科、高等科となりましたが)高等科は勿論のこと、

 初等科でも出来る仕事で軍需工場へ動員されまして、みんなお手伝いをしました。

 この19年には、私は第一国民学校という所にいたんですが、その分教場が川口の土手

 の中つまり河川敷にありまして、私はその分教場長でいたわけです。

 その頃、運動場、農地を合わせますと、約2町歩位の広い敷地があったんですが、そこに

 主としてサツマイモ、それから麦、終いには運動場全部を掘り起こして、これをカボチャ

 畑にしちゃたんです。

 何れにしても分教場は高等科の生徒が主として行っておりまして、朝から晩まで、草刈り、

 堆肥作り、そういった農作業で一日は終わります。

 草刈りは‥‥。、校長が(浦和に住んでいたんですが)4時36分、川口着の一番電車で

 やって来ちゃうんです。それまでに、もうすっかり鎌を研いで、ズーッと土手へ並べて置か

 ないと機嫌が悪いわけなんです。

 こっちは4時頃から行きまして、その準備をしておくというと

 「おはよう!」なんて言って 「じゃあ始めっか!」と、それから始まるわけです。朝露の

 草を授業前に刈ってしまうんです。

 11月の3日には川口の上空にもB29が現れました。その頃は爆撃はしませんで、偵察

 なんですね。いろいろと細かく写真を撮られてしまったらしいのです。高いところを毎日

 のように飛んできて、ギラギラ見せびらかしながら、写真を撮ったらしいのですね。

 分教場は土手の外にありまして、学校の東に赤羽に行く大橋があるんです。そして学校の

 敷地の西側には鉄道の鉄橋があるんです。この大きな橋の間にある学校ですから、マァ、

 後になって考えたら、橋は爆撃しなかったわけなんですが、当時はそんなこと解りません

 から、むしろ鉄橋にしても、大橋にしても爆撃されると思っていたんです。

 従って、そこに勤務している私は、当然、もうどっちがやられたって吹っ飛んでしまうと

 思っていましたから、もう本当に気持はサッパリしていたわけです。

 その後、虫歯になったんですが、歯医者に行って歯を治したって、治るまで命が持つか

 どうか分りゃしないから、「マァ、行くこたぁなかんべぇ」と言う訳で、歯医者へ行くの

 を止していたくらいです。

 19年には、校舎の半分を防衛隊用に削りまして、学校の授業の方は、西の方の半分に

 全部を集め、東半分は防衛隊に六教室を解放したわけです。

 防衛隊が入ってきた頃の事ですが、学校では当時、コロを混ぜると豚を三十何頭か飼って

 いました。子供が朝登校する前に、当番班がパイスケで各家庭の厨芥を持ってきて、厨芥

 で豚を飼っていたわけです。

 時には豚さんも妊娠もしますんで、一晩中提灯を点けて腹をこすったりしながら、

 「お産婆さん」をしたんですが、なんてったって何匹も生みますから、夜中から朝まで、

 一晩中かかってしまうわけなんです。

 できかかると裁ちバサミでヘソの緒を切って、「一丁あがり!」というわけで、パイスケ

 の中へ豚の仔を入れて教員室へ持っていく。まわりのヌルヌルしたやつを剥がしてやると、

 もう教室の中をパカパカ跳んで歩いているんですね。こっちは「いい面の皮」で、一晩中

 デッカイ腹をなぜながらお産の手伝い、終いには交尾の手伝いまでしてやったもんです。

 そんなことで豚が三十何頭か居た他、分教場の方ではヤギも飼っていました。

 ヤギ小屋がだいぶ汚れたので、私が軍服の古いのを着て戦闘帽で、汚い手拭いを腰に

 ぶら下げ、ヤギさんのウンコや何かを掃除してますと、(防衛隊が入って来た日で)

 防衛隊も大掃除なんですね。屑がうんと出たんです。

 そうすると軍曹殿がやって来て、「おい、爺や!」てわけです。

 「この学校は大きい学校だなぁ! ゴミ捨て場はどこにあるんだ?」

 「ずっと向うの運動場の隅にあります」

 「大変だなぁ、爺やもこんな広いところで‥‥まぁ体に気をつけてな、しっかりやれよ」

 というわけで、すっかり「爺や」さんになっちゃった。

 ところがその晩、防衛隊の方でお世話になるんだからというんで、学校の先生を全員呼ん

 で御馳走をして下さる顔合わせの会があったんです。

 私は分教場の主任ですから、中央に座らせられてしまったんです。その脇に中隊長がいて、

 こちら側に職員がズーッと並んだわけです。

 そうしたら、軍曹殿が教室の中なんですけれども、歩調をとってポッカポッカ歩いて

 来たんです。

 中隊長が「何だ?」

 「いや、知らぬ事とは申しながら、主任殿を爺やと申し上げて仕舞いましたので、謝罪

 にまいりました」

 「このバカヤロウ!」というわけで軍曹さんは中隊長に怒鳴られましたが、そんなことが

 あってから、お陰様で兵隊さんとの人間関係が非常に良くなったんです。

 当時、我々は麦やサツマを食べたんですが、宿直の朝はドンブリ一杯のお米のマンマ、

 若干コーリャンが入っていましたが、お米のご飯とオミオツケですね。これを宿直の先生

 には必ず持ってきてくれたんです。みんな宿直するのが楽しみになったくらいでした。

 もちろん、夜になると空襲になるので、物騒ではありましたけど、とにかくご飯が食べら

 れるというようなことでありました。

 朝になりますと堆肥作りやなんかがありますんで、校長室で作戦会議があるわけです。

 私が農事作業の親玉ですから、私がいつも校長室へ行って承ってくるんです。

 校長と向き合って腰かけて、「今日はな、第一時間目は〇〇学級の‥‥第二時間目は

 〇〇学級が堆肥の方」とか、いろいろ作戦を練ってくるんですね。

 その話の最中に、校長の机の脇には爪を切る小さなハサミがぶら下がってんですが、

 いきなりそのハサミを取り上げたんです。爪でも切りながら話をするのかなと思って

 いたら、私の鼻をいきなり掴んだわけなんです。アラアラ、と思っているうちに鼻毛

 を切られちゃったんです。

 今年で73年生きているんですけれども、鼻毛を人様にパッと切られたのは初めてなん

 ですが、皆さんはありますか?

 それはそうと、生命はなんでもなかったんですが、子供にも死ぬことを教える時代であり

 まして、生きることを教える時代ではないんです。「死」ということが周辺に漂っている

 ような時代ではありましたが、今のようなユーモアが時々あったんですね。

 特に草刈り。学校側の土手がほとんど刈りきってしまったもんですから、赤羽側の土手

 まで手を伸ばしたわけです。そうしますというと、赤羽へ行きますには大橋を渡って行く

 のですが、大体、800メートルあるんです。それを渡って、向う側で草を刈るんですね。

川口-12.jpg

 そこで、校長が

 「今日は俺が向うへ行って指揮するから、小山はこっちの指揮をとれ」て、わけで、私は

 学校側の土手で指揮を取っている。そうすると赤羽側では、校長が隊長で草刈りをしてい

 るわけです。

 時々、伝令がやって来るわけですね。800メートルの橋を駆け足でやってくるんだから、

 これは大変なことです。

 高等科の生徒ですが、向うから来ると、草を刈っている私に挙手の礼をして

 「伝令!」

 「何だ?」

 「只今、校長先生があそばされました」

 「何をあそばされた?」

 「屁です!」

 なんてわけで、草を刈りながら校長がぶっ放すらしいんですね。そうすると伝令がそれを

 伝えに800メートルの橋を駆け足で渡って私の処へやってくるんですね。

 そうしているうちに、また空襲警報が鳴る。防衛隊と一緒ですから、彼らが深い立派な

 防空壕を掘ってくれまして、そこへ皆で逃げ込む。こういった状態だったんです。

 川口という処は海抜が3、4メートルでありますから防空壕といいましても、本校の方

 にも掘ってあるんですが、どちらも一尺も掘ると水が出ちゃうんです。湧いてしまうん

 です。海抜がゼロに近いんですから‥‥。ですから深く掘れないんですね。しょうがない

 ので、深くても1メートル位掘って、あとは上へ泥を重ねたような、まことに一撃のもと

 にやられてしまうようなものです。中は水が溜まりますから「渡り板」を渡したり、

 子供の腰掛けを並べて水から逃れるようにしてある。そういう防空壕へ飛び込むわけで

 あります。そのようにして19年を過ごします。

 20年には教頭になったんです。教頭の任務は、ご真影、勅語、その他の詔書類の守護

 ですね。

川口-07.jpg


 奉安殿の中に、ご真影と教育勅語、その他の詔書などが、リュックサックのような背負い

 袋に入っておりまして、いざとなったら、教頭がすぐにヒッチョッテ、警察署へまず退避

 する。警察署が退避所に決まっていたわけです。

 空襲警報が鳴ると、私はすぐ学校に行って奉安殿の側で過ごすわけです。ですから夜は脚絆

 を着けたまま寝ているのです。たいてい夜いらっしゃるので‥‥。

 家族は空襲警報が鳴ると、お父っつあんには居てもらいたいんですが、お父っつあん殿が

 教頭だから、そうばかりしてはいられないんで、まず一番先に飛び起きて学校へ吹っ飛んで

 行ってしまうんですから、かなり心細かったと思うんですね。

 マァ、居たって大した違いじゃないでしょうがね‥‥。それでもご真影の守護は、これは

 任務でございますから、欠かさずやっておりました。

 そして、19年3月に「学徒動員令」、20年の3月には「戦争教育令」というのが

 出されたんです。

 これは、国民学校の初等科以外は、一年間授業停止という法律なんです。初等科は授業を

 してもいいんですが、初等科以外の上の生徒、学生は、一年間の授業延期、全員工場等に

 動員されて軍需産業のお手伝い、そういう時代でありました。

 従って、朝礼などの時も、いつ空襲警報が鳴るかわかりませんから、カバンを背負ったまま

 なんですね。そして、待っている間、子供はみんな読本を読んでたんです。

 朝礼の始まる前は、全部「読み方」の本を出して、声を出して本を読む。そういう朝礼

 だったんです。

 始まると校長が簡単に話をして、とにかく、一分一刻を争って授業をする。空襲警報が鳴る

 と、すぐに子供は帰ってしまう。ですから、みんな防空頭巾を被って登校と、こういうこと

 であります。

 勉強する時間がないから、夕方は家で子供に読ませろ、音読させろということで、本を声を

 立てて読ませる。声を立てずに読んでいると、先生が廻って行ってもわからないわけなん

 です。ですから、声を立てて読んでいてくれれば、先生が地区を分担して一回り廻ると、

 この地区はみんな勉強しているな、ということがわかるから、夕方になると子供たちは、

 家でデカイ声を出して「読本」を読むわけです。

 そういうように、読める時、勉強出来る時に勉強をしなければ、いつ空襲になるかわから

 ないから、ということで、時間を惜しんで勉強をしました。 

 8月15日に終戦になったわけでございます。終戦になりますと、第一の任務は何かとい

 うと、ご真影、それからお勅語や詔書の謄本類を返還すること。これは教頭の任務であり

 ます。随分急がされたので急いでやりました。

 ぐずぐずしていると、進駐軍がチョイチョイ廻ってきますので、ボヤボヤしていたら巻き

 上げられてしまいますから、本当に急いで市役所に収める。

 それから、続いて奉安殿の撤去なんですけれども、これが実に頑丈に出来てまして、とても

 学校にある道具ぐらいで、ひっぱたいた程度ではコンクリートが壊れない。

 仕方がないから、奉安殿の後ろにデッカイ穴を掘りまして奉安殿を倒して埋めたわけです。

 そしたらコバ(角)が出てしまいまして、うまく埋まり切れなかったんですけれど

 「泥を盛ってしまって築山にしてしまえばよかんべぇ」ちゅうわけでして、いまだに埋ま

 っているはずです。

 それから忠霊室というのがありまして、戦死された方の写真が飾ってあったり、戦利品

 などがあったんですが、そういう所を、まず撤去しなければなりませんでした。

 そして、教育内容としましては、まず「読本」の中で、或いは教科書の中で、国体に関する

 ことは、全部墨で塗りつぶす。或いはハサミで切り取ったりして、そういうところは教科書

 から全部抹殺をしました。そして、「修身」と「国史」が無くなったんです。

 代わりに「社会科」と「家庭科」というのが出来たわけです。

 今でも「修身」が無くなったから、どうも今の子供はゾンザイてる、行儀が悪いと、時々、

 そんな声を聞きますけれども、戦後の教育の大転換で一番先に手を付けたのが「修身」と

 「国史」という教科を抹殺したということです。そこから始まったわけです。

 このように終戦後に教育の大転換が行われたのでありますが、第一には、教育というものが

 国民の権利になってきたわけです。

 「義務教育」といいますが、義務というのは親の義務なんです。子弟を学校に出す親の義務

 でありまして、国民は全員、教育を受ける権利がある。憲法の26条に「すべて国民は、

 法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する。」

 と、こういうふうに明記されてまして、国民が教育を受けるということが、国民の権利に

 なったんです。

 その次に大きな転換は、今までは、いわゆる皇国の民という枠の中に詰め込むのが教育で

 あったんですが、今度はそういった国体観念は一切抜きにして、「民主教育」というよう

 に変わってきた。

 それまでは、つまり教科書を学んだんです。教科書は「国定教科書」でありますからその

 教科書を、その通り学んだんでありますが、終戦後は、教科書を学ぶのではなくて、今度

 は検定の教科書で、各学校で自由に選んで使う教科書になりましたので「教科書を」じゃ

 なくて「教科書で」学ぶというふうに変わったわけでございます。

 それから大きな変化は、国民学校の初等科、高等科、それから中学校、商業学校など、

 いろいろありましたけれども、これらを6学年の小学校と3学年の中学校、9ケ年の義務

 教育として確立したわけです。

 今までは六年間の義務教育だったんですが、小学校、中学校の九年間の義務教育、これが

 いわゆる六・三制です。それからもう一つ関連して高等学校とか専門学校、大学等を

 再編成して、これを新制の大学にしたわけです。

 六年の小学校、三年の中学校、三年の高等学校、四年の大学、こういう一本の線で学校

 体系というものが大きく変わりました。

 その内容は子供の個性の尊重ということ、今までは個性なんてどうでもいいんです。

 どんな持ち味があっても、そんなことはいいんで、みんな皇国民という枠の中にはめ込ん

 でいく、

 そういう教育であったわけであります。

 けれど今度は個性の尊重、子供の持ち味を生かしながら教育方法や教育内容を作っていく、

 そう改められました。そのためには、まず文部省の権限が変わってきた。

 文部省というところは、学校の指揮、監督をしていたお役所なんですが、国立の特殊な学校

 以外は指揮、監督を避けた。そうして教育内容の基礎を作ったり、或いは指導・助言をする

 基準づくり、こういうふうに文部省の権限が薄れてきたわけです。そして従来のように文部

 省の命令で教育を動かしていくことができなくなった。

 戦前は教育というものが勅令で決められたんです。つまり、議会にかける必要がないんです。

 「勅令」で、つまり天皇陛下の命令で「勅令立法」というものによって教育の法律が決まっ

 てきたわけですが、終戦後はこれらが国会の法律によって決まる。つまり、国民の代表の

 国会議員の議決によって法律が決まる。

 つまり、教育が国民自身の手で、在り方を決めていくというようになり、今まで自由に指揮

 をとっていた文部省が、指導、助言をするだけというふうに変わってきたわけであります。

 さらに学校教育だけでは良くないということで、社会教育が盛んになってきました。

 従来は、日本の国は家庭と国家があったけれども社会がない、というふうに言われていたん

 です。つまり、忠良な臣民を家庭で養って、すぐに国家に尽くす。こういう縦の関係の強い

 組織でありましたが、今度は横の関係、国民同志のお互いの自覚を高め、それによってお互

 いを盛り上げる。そういった教育を必要とするということで、社会教育というものが生まれ

 てきまして、公民館などを社会教育の中心として置くようになったということです。

 更に勅令から、議会により法律が出来るようになったと同時に、教育という仕事が地方での

 権限、市町村の義務になってきまして、設置の義務、管理の義務が、県、市町村に、みな移っ

 て来たわけです。

 そして、昭和22、3年に、教育委員会制度ができました。初めは教育委員は選挙で選んだ

 のでありますが、後に市町村長の任命ということになったわけです。

 教育長とか、指導主事とか、社会教育主事、こういったような専門家ができました。

 私は、昭和21年に校長になりました。終戦後のドサクサの時でありました。当時、教員

 組合では対策委員会というのをつくりまして、大宮に本部を置いて、県庁などへいろいろ

 交渉に行ったわけでありますが、私もその対策委員会などにも引っ張り出され、校長をや

 っていながら学校を留守にして大宮の本部へ行っていることが非常に多かったんであります。

 教育委員会制度が出来ましたので、私もまず指導主事の講習を受けようと思って昭和23年

 の9月から12月まで東京へ通いまして、第一回の講習を受けました。講師は勿論アメリカ

 人でありました。

川口-06.jpg

 内容についてはそれほど目新しいこともなかったんですが、やはり、講師の人柄といいますか

 これにはやはり打たれました。さすがに講師として派遣されているだけありまして、人柄が

 非常にいいんです。人間性豊かなものを持っていまして、その方の影響を多分に受けた感じ

 がいたします。

 三か月間、指導主事の講習を受けて、24年から川口市の教育委員会に入ったわけであります

 けれども、当時は何れにしても制度が変わり、しかも紙がない。

 教科書でもなんでも、ぞんざいな紙でしてね、ノートなども十分に無いわけです。非常に窮屈

 な時代でありました。

 白墨なんかも、今のは円筒形で太さが同じなんですが、昔の白墨は片方が細かったんです。

 先が少し細くなっていた。新しい白墨使うとき普通はどうしても太い方を持ちますね。怒ら

 れちゃったですよ。太い方を持って書いたら‥‥。何故怒られたかって言うと、太い方を

 持って書くと、最後の残りの体積がデカイちゅうんです。細い方を持って書けば、短くな

 った時の残りの体積が少なくて済む。だから白墨を有効に使うためには、細い方を持って

 書かなくてはいけない。

 一度使った封筒などは、裏返しして貼り付けてまた使う。或いはそういうものを貯めてお

 いてノート代わりにする。こういった物の乏しい時代であります。お米なんかはなかなか

 食べられませんでした。当時、200円出すと「闇米」が買えたんですが、私は麦で我慢

 してました。

 麦かサツマで‥‥。

 家の次男坊なんか、離乳食といいますか、オッパイから一番先に食べたのは麦飯ですよ。

 全部麦です。ムンズラひっ掴んで、私たちがウッカリしている間に、茶碗を倒して、

 それを食っちゃったんです。これが離乳食でした。「大丈夫そうだから、じゃぁ、これで

 いくか」というわけで、麦で育てたのが、デカクなるもんですね。いま、179センチ、

 私が上を向いて小言をいうんですから‥‥。そんな時代でありました。

 とにかくものが乏しい。昭和25年に衣料切符が廃止になったんですが、木綿の手拭い買う

 にも、切符を何点も取られてしまいます。

 26年に講和会議があって、それから独立国になったんですが、それまでは大変なもので

 した。学校へも進駐軍の二世がチョイチョイ廻って来ました。日本語も英語も、両方話せ

 ますからね、具合が悪いんです。

 終戦後、教科内容が変わったことと、食糧事情によりまして学校給食が始まったんです。

 アメリカから送って来る小麦粉でパンを作り、脱脂粉乳を飲ませて、それから、アメリカ

 製の缶詰が配給されたんです。

 この缶詰がうるさいんですよ。いきなり、進駐軍の二世が威張ってやって来て、

 「校長さんいるか?」なんて、校長室入ってきまして、「缶詰いま何個ある?」いきなり

 聞くんです。

 何個あるかって言われったって、何百個も倉庫に積んであるのを、、いちいち勘定する

 わけじゃないから、凡そのことを言うと、「凡そではいけない、正確に言え!」なんて

 言うんです。

 しょうがないのでその後は手帳に書いて置くんです。何の缶詰が何個来て、何日に幾つ

 使って、現在何個残っていると、手帳に書いておかないと、何時脅かされるか判らない。

 そのようにして、アメリカ進駐軍の影響が多分にある学校給食というものが始まりました。

 それ以前は、先程言いましたように、養豚をやっておりましたから、学校の豚を時々、

 屠殺場へ持っていっては豚汁の給食です。子供が食事をする時、戦争中から時々、豚汁を

 作りまして、お昼の時に子供に食べさせたんです。

 ところが、屠殺場でやりますと、臓物を取られてしまうんですね。あれが中々栄養価が

 あるんだから、これを取られちゃたんじゃ、というわけで、悪い事とは知りながら、

 「一丁やるか!」ちゅうわけで、蜜殺をやったわけです。たくましいやつを、間宮君と

 いう同僚と私の二人で、薪割りを逆に使って、豚がのり出してくるやつを、間宮訓導が

  ”ポカッ” とやるんです。

 ところが、なかなか命中しないわけなんです。一発でいかないんです。屠殺場ですと

 一発なんです。電車の改札口みたいな処に追い込まれて出てくるところをポカッと一発、

 コロッといってしまう。

 これはわけないないと思って、まして薪割りだから一発で充分と思った。ところが、三発

 やっても四発やってもダメ。終いには、恨めしそうな顔をしてジーッと見ているわけなん

 です。でも、十発位くれて、やっと退治しまして、これを井戸端へ持っていってぶら下げ、

 毛をむしるわけですね。この仕事も屠殺場で見ていると、簡単にサーッとやってしまうわけ

 なんです。

 訳ないものと思って、ナイフを研いでやってみたら、いやはや、ちっとも毛が取れないわけ

 なんです。みんな肉へくっ付いちまうんです。

 やっとむいて、いよいよパイスケのなかへ肉を分けて、良い肉と、待望の臓物まで、ちゃん

 とパイスケへ入れて、ニコニコしていたところが、不幸というものは何時来るかわからない。

 県から派遣されて屠殺場に来ている警察のお医者さんは屠殺して調べた後に、精肉の検定済

 のハンコを押すんですが、そのお医者さんが、川口の町のパン屋でお茶を飲みながら世間話

 をしていたら、国民学校の生徒がお椀をぶら下げて行くので、

 「オイ、兄ちゃん」と呼び止めて

 「今日は何だい?」と言ったら

 「今日は豚汁だい!‥‥

 「ハテナ?、第一国民学校じゃあ、昨日も今日も屠殺場へ持ってこねえんだけども、

 おかしいな」というわけで、内偵から密殺がバレてしまったわけです。それで、肉を全部

 「封」されちゃったんです。しょうがないから、半紙一枚へ「謹書」で私が始末書を書い

 たんです。

 私も、色々なものを書いていますが、豚の密殺の謝罪の始末書なんていうのは初めて書き

 ました。それを書かないことには食えないわけですから‥‥。「今後一切、かかる不法行為

 致しませんから、どうぞお許し頂きたい」という意味のことを、長々と名文句で書きました。

 「そもそも」というところから始めて、書くわけです。「児童の栄養の大切なこと」を書い

 て「ところで」と本論に入るわけで、非常に名文の始末書を書いたわけです。それによって、

 やっと解除になったんです。

 ところが、そんなことで行ったり来たりしているうちに、臓物は腐っちゃいました。肉の方

 だけは、やっと助かって生徒に給食できたんですが、「密殺は止すべえや」というわけで、

 以後は屠殺場へ持っていきました。

 持っていくのも大変なんです。簡単に籠に入る代物じゃない。豚小屋から運動場へ出して

 上から籠を被せるわけなんです。ところが、逃げ始めると、あれは結構速いですからね。

 実に速い。とってもスバッシコイですよ。それを、籠を持って追っかけてって、上から被

 せて、下へ太い竹を突っ込むわけですね。それからヨイショと起して持っていくんですが、

 一度、屠殺場の近くで逃げられてしまいましてね。畑の中へ逃げられて、ひどい目にあった

 ことがあるんです。とっ掴まえるのに大変な時間がかかりました。そんなこともありました。

 戦争中を振り返りますと、それは、命を捨ててかかってる教育でありました。国民錬成の時

 であり、また、昭和16年以降は、満蒙開拓青少年義勇軍、現地では「青年義勇隊」と言っ

 ておりましたが、義勇軍を高等科の生徒に勧めて、満州へ行ってもらうよう働きかけたり、

 私も随分送り出しましたが、でも幸いにして、全員が無事に帰ってこられましたから非常に

 ホッとしました。

 そのほか、高等科を卒業してすぐ、少年航空兵として出ていく子供たち、16年以降という

 ものは、高等科卒業の生徒は学徒動員で工場へ出る。或いは満蒙開拓青少年義勇軍となって、

 満州へ渡っていく。

川口-09.jpg

川口-18.jpg

 昭和17年に私も義勇軍の農閑期に授業をするので、11月末から12月の終わりまでの

 約1ケ月間、中隊長の家に泊まりまして、勉強のお手伝いをさせてもらったんですが、

 中隊長のお宅のペチカがボッコレましてね、家の中でも零下10度なんです。鼻をかんで、

 枕元へ置くとすぐ凍ってしまうんです。小便をすると、そばから凍ってしまうから、

 ブッカキ、ブッカキ小便をする。あれは嘘です。しているうちは凍りやあしません。

 したのが下に着地すると、すぐに凍ります

 お風呂へ入りましても‥‥。材木工場にお風呂がありまして、そこの視察に行った時、

 お風呂を貰ったことがあるんですが、工場を出て、手拭いをぶら下げ、二振り、三振り。

 三振り目ぐらいにはパッと手拭いが真っ直ぐに立ちますね。

 そういう寒い時に、義勇隊に一月お世話になって生活を共にしたのですが、訓練生は高等科

 を出たばかりですから、14,5歳の未だ少年です。それが順番で兵舎の不寝番に立って

 いるんです。防寒服を着けて‥‥。そうすると狼の鳴き声が聞こえてくるんです。

 狼の鳴き声というのは、サイレンと同じですね。「ウォー」と、あの空襲警報みたいなもの

 です。その中に、着剣した14,5歳の義勇隊員が防衛しているんですが、涙がこぼれます。

 帰りには教え子の隊員が、一人で駅まで送ってきてくれましたけれども、非常に張り切って

 おりまして、大変、教えられるところがありました。

 帰りには自由時間がありましたので、ジャムスという処に私の甥が入隊していたので、折角

 満州まで来たんだから、面会していこうと思って、ジャムスで降りました。

 そして、「〇〇部隊は何処ですか?」と聞きましたが、なかなか判らないんです。みんな

 秘密部隊ですから駅で聞いても判らない。兵隊さんに聞いても判らないんです。

 どこで聞いたら判るかって言ったら、憲兵隊へ行ったら判るかもしれませんと言うんで、

 駅の近くの憲兵隊へ行って聞きましたら、バスで四合屯迄行って、そこで降りれば近いと

 言うんです。ああ良かったと思いまして、バスに乗ったんですが、何しろ全部満人です

 から、日本語は通じないわけです。終点だと聞きましたから、一番終わりまで乗ってりぁ

 いいな、と思ってましたら、畑の真ん中みたいな所で降ろされたんです。何にもありゃ

 しないんです。

 遥か向うの森のような所に、兵舎のようなものがありましたから、そっちへ行ってみますと、

 柵がありまして、立札がしてあるんです。「この柵内に入る者は何人たるを問わず銃殺に処

 すべし」。秘密部隊ですから部隊名の看板が掛かってないんです。だから「119部隊」

 というんでしたけれども、見つけるにも見つけようがないわけなんです。困ってしまって、

 ガッカリして、手足も凍えてきそうになったんです。厳重に毛糸の手袋の上に、毛皮の

 手袋をしてたんですが、手が動かなくなってしまうんです。

 しょうがないから、道路へしゃがみ込んで、いわゆる「きん〇〇火鉢」ですね。中で温める

 以外、温めようがないわけなんです。

 温めいるうちにハイヤーが一台来たんです。見ると兵隊さんが乗っているんです。

 「シメタ!」と思って、止まってもらいまして、「119部隊はこの辺でしょうか?」

 と聞いたらば、私が「青少年義勇隊奉仕団」の腕章をしてましたから、兵隊さんも尊重

 してくれまして、「いや、実は私もその部隊へ行くんだから一緒に行きましょう」

 「地獄に仏」っていいますけれども、こんな嬉しかったことはないですね。

 そしてハイヤーに乗せていただきまして、部隊へ行ったわけです。

 そうしますと、衛兵所に赤々とストーブが燃えてるんですね。そこで、やっと手を炙ら

 せてもらったんです。兵隊さんが赤羽の工兵隊にいたことがあって、「川口にはよく演習

 で行ったんで知ってますよ」なんて言われまして、大変気を強くして

 「実は甥の星野弥一郎に面会に来たんです」
 
 「それではお待ち下さい」

 と言って、兵舎の方へ行ったんですね。しばらくして帰って来て

 「まことにお気の毒ですが、星野一等兵は只今出張中です」。

 「いや2,3日ならジャムスで泊まって待っていますが幾日くらいで帰りますか?」

 「さあ?、中支の方へ出られましたから、何時というわけにはいきませんです」

 そこいらへ出張したんじゃないんですね。中支へ行っちゃったんです。それでとうとう

 逢えなかった。

 その甥も南方戦線で戦死してしまいまして、その時逢えればと、そんなことを思い出して、

 当時を忍んで、まことに懐かしいやら、その時分の張り切っている姿というものが思い出

 されるわけであります。

 戦前の教育、戦後の教育。戦後の教育は新教育なんていいますけれども、何かこの、捨て

 なくていいものを捨ててしまったんじゃないかといった、そんな反省を持ちますね。

 もっと取って置くべきものを、終戦のドサクサに紛れて、みんな、大事なものまで、

 うっちゃたんじゃないかと思うわけです。いかがですか?、皆さんの感想としては‥‥。

 捨てなくてもいいものを捨ててしまった。そんな感じがしみじみとするわけですが、

 それは、後の皆さんとの懇談の時に、ご意見等ありましたならお聞かせ頂きたいと思います。

 今日は、平野先生のご命日です。ご冥福をお祈りしながら、拙い話ですが、今日のこの集い

 には誠に不釣合いな話ではありましたが、戦前、戦中、戦後の教育というものが、大きな

 変革をしたという、きわめて大あらましのことを申し上げました。

                                                     (おわり)



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「三国第一山」の扁額と良恕親王 [歴史]

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「三国第一山」の大鳥居扁額と墨跡
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木造では日本で最大とされる北口本宮冨士浅間神社の「冨士山大鳥居」は古代に建立され、

以来、建替えや修理が行われてきましたが、江戸時代後期からは、60年に一度改修工事を

行うという慣例になりました。

昨年(平成24年)はその節目の年にあたり大規模な工事が執り行われました。


鳥居.jpg
 改修工事後の大鳥居


それに伴い「三国第一山」の扁額も新調されました。

三国第一山額.jpg
以前の扁額

三国第一山額新.jpg
 新しくなった扁額


 甲斐国志によれば扁額に関しては下記のように記してあります。

◇ 額(竪七尺五寸幅四尺七寸五分)文字三国第一山(曼殊院宮無障金剛入道二品親王良恕書、

  寛永十三丙子年(1636)二月十七日、秋元但馬守寄進古額あり、筆者不詳)


扁額との関連は不明ですが一幅の墨跡があります。

良恕親王の筆で、不思議なことに書かれた日も同じです。

持明院流という書法の美しさが感じられます。

良恕親王 墨跡.jpg
 墨跡




良恕親王

親王は陽光院太上天皇第三皇子で御母が新上東門院晴子、勧修寺内大臣晴秀公の女である。

初名は勝輔、法名は覚円のち良恕。幼称は三宮、号は忠桓。後陽成天皇の弟である。

天正2年(1574年)ご誕生、同15年に曼殊院門主となり、北野神社別当に補せられた。

青蓮院尊朝親王に受法潅頂し、元和7年(1621年)に二品に叙せられ、護寺僧を務められた。

元和8年には後水尾院の綸旨を賜り清涼殿に於いて七仏薬師御修法の御導師を務められ、

寛永16年(1639年)には第百七十代天台座主となり40年来紛失したままであった本尊を

修復して、開眼供養した。また、元亀2年(1571年)信長によって焼亡された延暦寺の

再興にも力をいたされた。

書は、持明院基孝に文禄3年(能書七箇条伝授)・慶長2年(入木道灌頂伝授)に伝授し、

多くの門弟に教えている。後水尾院にも能書七箇条伝授された。

当時、宮中での御歌会・御連歌には欠かせぬ歌人の一人であり、また学問一般の研究にも

励まれ『厳島参詣記』・『伊勢聞書』・『源氏聞書』・『詩講釈聞書』・『三体詩抜粋』・

『同聞書』などを残している。

また、良恕親王は桂離宮を造営した八条宮智仁親王の兄であり、桂離宮の笑意軒の額や

鎌倉の鶴岡八幡宮本宮の楼門の扁額「八幡宮」を揮毫し、日光山奉納の『古事記』書写の

奥書を記し、その他諸国の天満宮に社名の額を残している。

親王は、戦乱に明け暮れた織田、豊臣の時代から平和を取り戻した江戸時代初頭にかけて

在位された後陽成院をめぐる政治的文化的なグループの一人であり、その後の後水尾院を

中心とした文芸復興の先駆をなす、最高の教養人の一人であった。

寛永20年(1643年)70歳をもって入滅され、諡号を龍華院と称する。



笑意軒.jpg
 桂離宮の笑意軒の扁額



八幡宮額.jpg
 鎌倉の鶴岡八幡宮本宮の楼門の扁額


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