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内出稲荷と三座宮(三座稲荷) [歴史]

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  内出稲荷と三座宮(三座稲荷)
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内出稲荷大明神

我が家で氏神として祀る稲荷様は、今から約250年前の明和6年(1769年)に伏見稲荷より

勧請しました。勧請した当時は飯能村内出(現在の飯能市山手町・飯能市立第一小学校南側)

に屋敷がありましたので、字名を冠して内出稲荷と言います。

勧請した時に伏見稲荷の正官御殿預荷田信郷(羽倉摂津守信郷)から発給された正一位稲荷

勧請証書、金襴包みの神璽、荷田氏に差し出した誓詞の控え等が伝来しています。

内出稲荷勧請証書.JPG

  伏見稲荷・荷田氏(羽倉摂津守信郷)の勧請証書 


稲荷社安鎮之證書  本官正官  
           羽倉摂津守

正一位稲荷大明神安鎮の事

 右雖為本官之奥秘依

 格別之願望略式修封

 之  厳璽令授與焉

 祭祀慎之莫怠也

   正官御殿預

明和六年十月豊日 正五位下行摂津守荷田宿祢信郷

   武州高麗郡加治領飯能村
        小山儀兵衛殿


内出稲荷神璽.JPG

  伏見稲荷の神璽


稲荷返書.jpg

  、荷田氏に差し出した誓詞の控え


 証文之事

一、正一位稲荷大明神御安鎮之儀、奉願候処、御修封被成下

  忝大悦仕候、御安鎮之儀ニ付、御公辺者勿論、於所何之

  差構無御座候、尤妊妄怪異之儀申触、迷信人群参等

  相催儀ニ而者曽而無御座候、且朝夕尊宗不可怠之

  状、仍如件

 明和六年              武州高麗郡飯能村
                      小山儀兵衛
  稲荷本山
    御殿預家           同郡中居村
      神役人中            代印清泰寺
       



その後、文化年間に飯能宿大通りの久下分村側に住居を移しましたが、祠は旧屋敷地に残し

内陣のみ移しましたので、その後は家の中で稲荷様を祀ってきました。


内出稲荷.JPG

  内出稲荷


内出稲荷・使い姫狐の親子.JPG

  使い姫狐の親子


紙で折られた御神体.JPG

  紙で折られた御神体


いつの頃か旧屋敷地の稲荷社は出世稲荷と呼ばれるようになりましたが、

天保13年完成の飯能村絵図の中では、大泉寺(明治初期に廃寺)の東側の八左衛門

(小山八左衛門)と書かれた所が旧屋敷地で、絵の中に稲荷社と鳥居が記されています。



天保13年飯能村絵図.JPG

  天保13年飯能村絵図


明治初年の飯能村の地図では、小山八郎平の敷地内に見捨地として高外7番,8番の

出世稲荷境内が書かれています。


明治初年飯能村地図.JPG

  明治初年の飯能村地図

出世稲荷お札.jpg

明治時代の出世稲荷大神のお札


その後、出世稲荷は明治41年7月7日に埼玉県知事の許可を得て、他3神社と共に飯能元

久下分村の村社久下稲荷神社に合祀しましたが、その跡地を大正15年に氏子、神主名で

大蔵大臣 浜口雄幸宛てに国有土地無償譲与願が出されています。

出世稲荷位置図.JPG

譲与願に添付した出世稲荷の位置図の控え(久須美の小林氏に土地を売却後)


出世稲荷.JPG

現在の出世稲荷


出世稲荷本殿.JPG

本殿(出世稲荷神社史より)

   高さ2.8m、間口77cm 使い姫お狐の一対(天保14年 小山氏)


正面唐破風.JPG

正面唐破風(出世稲荷神社史より)


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内出稲荷の分霊 太郎神と次郎神
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太郎稲荷大神

言い伝えによると内出稲荷の分霊として祀られた太郎神は、慶応4年(1868年)5月

に起きた飯能戦争(上野の彰義隊から分かれて結成された振武軍と官軍との戦い)の時に、

当家で亡くなった振武軍の隊士を祀った神様とのことです。

飯能戦争の激戦の中、戸主で久下分村の名主であった小山八郎平(国三郎)の舎弟源三郎

は避難せずに家を守っていたそうですが、その時に負傷した振武軍の隊士が「かくまって

もらいたい!」と言って当家に逃げ込んで来たそうです。

小山源三郎は急いで隊士を土蔵の中の穴ぐらに隠れさせたので、官軍による残党探索にも

発見されずにすみました。

然し、傷は深く、手当のかいもなく数日後に亡くなってしまったのですが、亡くなる前に

「この地の守護神になりますから、私が死んだら神として祀ってもらいたい!」と遺言を

残したそうです。

その当時は賊軍の隊士ですから公にはできず、その亡骸は当家の墓地(大泉寺)の中に

秘密裏に埋葬したということです。

そして、八郎平は亡くなった隊士の遺言を守り、内出稲荷の分霊として太郎神(太郎稲荷)

と名付けて隊士を神として祀りました。そして同時に対の神として次郎神(次郎稲荷)も

合わせた兄弟神としました。


太郎稲荷大神.JPG

太郎稲荷大神


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三座宮(三座稲荷)
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その後、太郎神、次郎神は伊豆大明神と併せて三座宮(三座稲荷)として三丁目に祀られ

ることになりました。


飯能郷土史(昭和十九年一月発行)の記述によれば

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入子稲荷

伊豆大明神(源義家後三年役にその戦死者をまつるという)の分霊を祀る。後明治初年に

内出より太郎神、次郎神を併せ配し三座稲荷といふ。境内の杉古く、古社である。

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三座稲荷絵図.JPG

三座宮(三座稲荷)絵図


三座稲荷.JPG

現在の三座宮(三座稲荷)


三座宮印.JPG

三座宮社務所印、三座稲荷世話人之印


この三座宮(三座稲荷)の創建には、小山八郎平の妻婦久の夢見が関係したそうです。

明治3年に18歳で八郎平に嫁いだ婦久はとても信心深く稲荷様を信仰していました。

婦久について書かれた記述がありますので転記させてもらいます。


※ 民族茶ばなし(はんのう文庫2)著者 小谷野寛一氏 昭和55年2月6日発行より抜粋

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いなり信仰

飯能市旧三丁目のいとさん(仮名)は今から七十年ほど前、高齢で亡くなったが、生前、

いなり様を深く信仰していた。というのは、いとさんがこの家へ嫁に来る前から、ここには

屋敷鎮守として、伏見から勧請したいなり様が祀ってあったので、その家風になじんで、

奉仕を続けたわけである。信仰といっても、人により家により、まったく様々だが、いとさん

の家の場合は、大変手厚いものだった。三百六十五日、朝晩のお燈明を上げ、季節にはお祭り

も行なった。

この家は、町での旧家でもあり、家運隆々たる中なので、損得ずくの信心と異なり、まったく

純粋なものであった。こうした清らかな信仰心が、神仏に感応する例はめずらしくないが、

いとさんの身辺にも、そんな雰囲気がただようようになった。そしてそれが高まると、放心

状態となり、なにか口走ったりした。家族は気味悪がったり、もっともだと思ったりしながら、

静かに見守っていた。

そしていつの間にか「いなり様が乗り移る」という言葉がささやかれるようになった。

このような状態になる日は、いとさんの目は朝から異様に輝き、言葉の切れがよいので、

家族にも、それとなく感じられた。

この一種の昂奮状態というか真空状態というか、そうしたおりに度々書いたものが残って

いるが、まったくふだんと違う書であった。知らないはずの文字を書いたり、筆勢もまるで

違っていて、同一人の書などとは、とても思えないものであった。


夢のおつげ

いとさんがある時期、同じような夢を続けてみた。それは、おいなり様の夢で、なんでも

多峰主山の裏あたりのいなり様が「山犬がこわくて仕方がないから、どこかへ移りたい」

というのであった。

その夢を見るたび、いとさんは発熱した。もっとも、いとさんにいなり様が乗り移る時は、

きまって熱が出るのだった。

この事はいとさんの口から家族に、そして懇意な人達に伝わっていった。

明治のいつごろの事か、三丁目に稲荷神社が勧請されたが、これについてははっきりした

事は直接の関係者にもわからない。三座稲荷といって、伊豆大明神と、太郎神、次郎神が

祀られているというだけである。いとさんの夢見がここにつながるのかどうかも、今、

調べる手当は無い。

三座稲荷の社殿工事が始まったころ、夜中によく木遣りのうたが、その方角から響いた。

三丁目あたりには、これを聞いた者がたくさん居て「ああ、今夜も狐が仕事の手伝いを

している」と話し合ったという。


狐のよめいり

またこのころ、朝日山からの峰伝いに、狐の嫁入りちょうちんを見た者は多いという。

試しに筆者も河原町や三丁目の老人をめぐってみたが、「前山の方に並んだちょうちん

を見た」「見たという話を度々聞かされた」「おじいさんが狐の嫁入りだ、というから、

こわごわ障子のすき間からのぞいたら、白いちょうちんが、五つか七つぐらい、遠くを

動いて行った」と話された。

三座稲荷の境内は今はせまいが、前には三倍もあって、抱え切れないような杉の大木が

立ち並び、近くに「指定地」もあって、ずいぶん盛ったものだという。

(本稿は小山次郎氏、入子昌雄氏に見ていただいた。)

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内出稲荷松竹梅神筆.JPG

内出稲荷松竹梅神筆


内出稲荷神筆2.jpg

内出稲荷神筆2


内出稲荷神筆3.JPG

内出稲荷神筆3


伊豆大明神筆.JPG

伊豆大明神神筆


太郎神筆.JPG

太郎神筆


次郎神筆.JPG

次郎神筆


記録.JPG

記録



婦久に稲荷様の霊が乗り移ったのは数年間でしたが、確認出きるのは明治7年から明治

30年頃です。乗り移った時は筆を口に咥えて字を書いたそうです。

内出稲荷、太郎神、次郎神、伊豆大明神が書いたものがありますが、内出稲荷が書いた書

には、明治7年87才と年齢が記され、狐の足跡のような印が押されています。印は自然に

浮き出てきたそうです。また伊豆大明神は260才と年齢が記されています。

稲荷様のお告げに反する行動が続いたために、もうこの家には来ないと告げられ、その後

は稲荷様が乗り移らなくなってしまったということです。

嘘のような話ですが、身近にいた人が信じていた事は事実です。

後に八郎平の孫が明治の末に生まれましたが、稲荷様から名前を頂戴して長男を太郎、

二男を次郎と名付けました。



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