SSブログ

日華事変・北支からの便りと写真帳(No,3) [写真]

---------------------------------------------------------------------------
 近衛工兵連隊倉田部隊小山隊(第一小隊)隊長の陣中便りと写真帳(NO,3)
---------------------------------------------------------------------------


  『小山次郎様 宛』

   先日来、ご奮闘感謝致候

   当方目下第一線戦列部隊にて活動中、異常なし

   爾今、当分の間音信を絶つべく候

   厳寒の候ご自愛を祈る。各位に宜敷く

   明晩は恐らく露営になるべし。

     昭和十三年二月十一日夜

        北支陣中にて 小山太郎



  『小山次郎様 宛』

   目下山西の山の中を進軍中。

   今度は電信隊の仕事で毎日電線を伸ばしつつ行軍です。

戦場の電話.jpg



   こちらは既に寒気は去り外套無用。昨夜は夜行軍。

   十五夜の中、折から山頂に出で、其の景色筆紙に盡し難き

   ものがありました。全員異常なし。

   これより約一か月は発信不能なり。目下既に受信不能。

   内地は未だ寒いでしょう。ご自愛を祈る。各位に宜しく。

         昭和十三年二月十六日

             北支派遣加納部隊本部

               倉田部隊小山隊 小山太郎



  『小山次郎様 宛』

   目下邯鄲の基地にて待機中。

   彰徳南方、河南山西の天険部と小隊は二つに別れて行動。私は主力を以って山の方へ同甫

    線方面の大討匪に加わりました。彰徳組にて一名、私の方で指揮下にあった輸送隊特務兵

   三名を負傷せしめた。其の外残敵と天険との難行にも一同無事。

河南の山中.jpg

  写真の裏書き:二月十七日 河南(大行山脈)の山中、谷渡り難行中




   陸軍記念日には幸一同の終結を終って、邯鄲で東天を拝した。

   近く第二行動開始の為、暫くこの地に待機。前進か、後進か知る由もなし。

   各方面にも全くご無沙汰に終った事、予告していた通りです。大木先生の子供衆の慰問

    袋、喜美重、沼田の純子、巣鴨の叔母、広島の照山さん、三丁目有志等よりの慰問袋、

    何れも山となりて襲来。内容いずれも甘すぎて閉口気味。照山さんと喜美重さんの海苔

    はよし。大木組のウイスキーは子供ながら天晴。指導者のよろしきを思はしむ。先生に

   よろしく願います。湟埜の尊父さんに、和歌の礼を言って下さい。大変うれしく拝見し

   ました。

   未整理の各方面よりの書状山積して出し様なく困っています。

   小隊より内地還送の傷病者次の通り

    大阪ふ西河内郡金岡村大阪陸軍病院 金岡新分院九番病棟第十一号 小久保利三郎

    神奈川県川崎市南小田町九七 中島多喜代(妻)         中島晴吉
                 よく私へも手紙を下さる人です。

     千葉県銚子市川口町一ノ一〇九一五 竹内タヅ(妻)        竹内吉藏

  今回の戦傷者

   東京市本所区江東橋二ノ十四 當麻つや(妻)           當麻藤吉
       (彰徳南方にて敵と渡り合い左膝下に切創を受く)  

   神奈川県足柄上郡吉田村 県立農林学校一年生 當麻富士雄(長男)

      田中先生、山田正子先生、金子セイ先生よりお便り頂きました。

       急用が出来たから、これで打ち切ります。
   
                    昭和十三年三月十一日

                             北支派遣加納部隊本部

                               倉田部隊小山隊長 

                     皆様によろしく


最後の発信.jpg

  戦死5日前の中隊長宛て最後の発信



   三月三十一日早朝、第五兵站自動車隊の護衛として便乗し潞安への軍需品輸送の帰路、

   河南、山西両省堺東洋関東地区?堂舗附近の山岳地に於いて我に十数倍ある敵第八路軍

   主力約三千の重囲に陥り応戦すること四時間半、不幸敵弾の為胸部外数カ所銃創を受け

   戦死す。

   行年三十五歳。



响堂舗戦闘地1.jpg

  响堂舗戦闘地の山岳地帯


响堂舗戦闘地2.jpg


响堂舗戦闘地3.jpg


响堂穂戦闘地4.jpg

  激戦の跡


摘出された敵弾.JPG

  摘出された敵弾






   『小山かよ様 宛』

   今から十三年年も前,志願兵の星一つから、共に語り、共に学び、喜びも悲しみも、重たい

   物は助け合って持ち合った。私は懶惰であった。だから、太郎君はよく怒ってさえ私を励

   ました。今度の出征に於いても、どんなに二人が一緒な事が力になり合えたか。たとへ

   任務が所を異にしていても、お互いに気にし合って、比較的、ながく一地に駐って居た

   私は鶏だの、菜っ葉だの、豚だのを言づけて届けたものです。とても喜んで呉れて、

   親しい便りを呉れました。

   時々、石家荘あたりで落ち合って一杯やりました。この頃は酒が強くて、とても相手に

   不足ら しかったが、私は深酒を戒めた。

   「我友は桜の花と散りにけり」 何と申し上げていいやら、華々しい御最後でした。

   山近き里に桜を求めて、仏に手向けんとすれば花は散る春の陽に。

   私は泣けて来ました。又繰り言ですが 「我友は桜の花と散りにけり」

   彼が山嶽重々たる長城線附近に部下を叱咤して武人としての華々しき奮闘、衆力敵せず、

   残念な事でしたでせう。太郎君はどんなに歯がゆい残念さの理に護国の鬼になられたで

   せう。

   私はその任務に交代を申し出ました。彼のためにも恨みを晴らす覚悟です。心からの

   二人であった彼だけを黄泉の彼方にやりたくはない。生還は期せざりし二人だった。

   思い出せば限りもない。汽車の中、船の中、昼となく、夜となく、暑熱に、酷寒に、

   転戦に過る年の十二月に私が敵弾に倒れた時も、どんなに心からなる看護をして呉れ

   た事か。慰めと勇気づけの言葉の限りを語る太郎君の姿が未だ私の瞳に消えない。

   赤羽の連隊に於いても、二人して写真を撮りました。広島に来て厳島神社でも二人

   並んで、鹿を相手に撮りました。二人して武勇の長久を祈って帰って来た。

   私は敵弾に傷つき、太郎君は戦死した。何をか云わん。戦場の常とは言え、良き友、

   竹馬の友を失って悲しみはとても深い。二人が仲良しで居ただけに、二人の部下の

   親しみも深かった。

   親類交際の様に「お前のところのおやじ」「第二小隊のおやじ」心安く兵隊は語って

   居ました。

   九か月の月日のさ中に互いに交した友情は何にも優れたこの世の華でした。

   忘れ難い戦場の友情! 今は居ない 太郎よ! 太郎よ!

   私は昨日、戦死の知らせも知らず石家荘の中隊に来ました。いつもと何の変わった事

   も無い気持ちで。私は愕然とし、敵には強い私でしたが、倒れそうになりました。

   私は現地に直ぐ行く筈でしたが、命令が許しません。私は巡察将校として正定縣に行か

   ねばなりません。私と二人で撮った写真を取り出して見て下さい。

   私は今、中隊長殿を急き立てて、現地に行って頂きました。

   私の落ち着かない気持ち、嵐の様に迫って来る悲しみ。静かなる心の暴風。

   とんだ事でした。お悔みのまことを、とても言葉が拙くて表わせません。お許し下さい。

         四月三日

                  第二小隊長  坂倉少尉

      小山かよ 様





   『小山かよ様 宛』

   前略

   陳者、未だ御面接の栄を得ませんけれ共、私共は故隊長殿を父母とも仰いで参りました

   小山隊の者共であります。

   去る三月三十一日、隊長殿には河南省渉県响堂舗附近に於いて大挙襲撃せる敵第八路軍

   及騎兵第四師を相手と致され小隊を指揮中終に平素の御決心通り我が皇軍の華として

   名誉の戦死を遂げられました事は我ら一同何と申し上げて宜しきやら御慰めの辞に苦し

   む所であります。

   主従は三世とか二つなき隊長殿を失い,また華々しき死出のお供仕りました十一柱の戦友、

   嗚呼我等の心中もーーー

   我小山小隊が邯鄲第五兵站支部の要員として石家荘を出発致しましたのは三月二十三日

   午後九時でした。出発当時我等に下されました御訓示は四囲の情勢から推察して大分

   危険が伴うから各人は充分緊張の上にも緊張せる様にと申し渡されました。後から考え

   て見まするとご覚悟の程がうかがわれます。

   翌二十四日午前七時邯鄲着。直ちに自動車部隊に配属を命ぜられ、同日は旧宿舎に入り、

   二十五、二十六、二十七、二十八日と待機致しまして、二十九日に各分隊は各所属せら

   れました自動車部隊に便乗邯鄲西南方約二百キロの潞安へ第一線部隊用の軍需品を積載、

   午前七時半勢揃いしまして、前記潞安へ向け出発しました。

   嗚呼思えば此れが永久のお別れとは、いかに戦場の習い慣とは云え誰が予想も致しませ

   うか。而して同日は午後三時、第一日の日程地たる渉県へ一泊致しました。

   この地方(殆ど潞安迄そうですが)は総体山亦山が重塁致して居ります。所謂山岳地帯

   でありまして、我等が通過致します道路は河の底の石ころがゴロゴロ横たわって居て、

   雨季に入りますと河水が物凄い勢いで流れる相でありますから両側に点在せる部落も

   皆道より約五、六十米も上にあります。

   翌三十日七時渉県出発。同日午後二時目的地?安へ着きました。途中敵の襲撃を予期

   しましたが、何の事もなく一同元気でありました。而して同所へ各軍需品を車下し、

   午後四時出発。黎城へ午後八時着。同所へ一泊。

   翌三十一日午前七時出発。河南省と山西省の堺を画する万里の長城を通過約一キロ程

   に進みますると道路傍に有ります軍の電話線が電柱共滅茶苦茶に破壊せられて居ります。

   ソレで或る予感をいだきつつ一同緊張の上にも緊張しまして午前九時頃でしたか响堂舗

   村落を通り過ぎますと左方に吃立致します約七百米位の山頂より突如一声ラッパと同時

   に二発の銃声が聞こえました。スワ敵襲と一同自動車上より飛び降り応戦しました。

   応戦しています内に敵は左右の高地より刻々に勢力を増加、銃丸は雨霰の如く飛来しま

   した。

   何分にも丁度擂鉢の底より応戦しました事故地形上我に不利でありまして、敵は我に

   十数倍終に响堂舗の露ときへられましたる事は返す返すも残念至極の事でありまして、

   ご家族様は勿論、御一門方々の御心中さぞやと深く深く御推察申し上げます。

   隊長殿の血汐は北支の夕陽に照らされ、畏くも

   大元帥陛下の御命の侭、東洋平和の礎として其名は永久に軍の青史を飾り我等が祖国

   大日本帝国の栄へ行く姿を見まわれるでありましょう。

   而して御遺骸は我等の手に依り同日夜、渉県へお運び申し上げて火葬を四月二日午前

   八時と定められました。

   四月二日準備の関係上、午後三時三十分から火葬に附し申し上げました。

   翌三日午前六時三十分お骨上げ、同日午前八時渉県西方約1.5キロの地点、道路左方の

   小丘に(响堂舗戦闘戦没者英霊合祀之碑)の墓標建立しまして御分骨を埋骨致しました。

响堂舗戦戦没者の碑.jpg

  响堂舗戦闘戦没者英霊合祀之碑




   将来は此所に忠霊塔が建設せられる事と思われます。嗚呼英霊永久に鎮まりませ。

   而して七日午後四時、渉県出発、翌八日午後十二時三十分頃邯鄲の宿舎に帰還致しま

   した。かねて設けられた祭壇上に英霊を御安置申し上げました。毎日交代交代でお通夜

   (衛兵附きにしてあります)して御傍に供奉致して居ますから何卒ご安心下さい。

   尚今月末他部隊の英霊と共に当邯鄲に於きまして合同慰霊祭を執行後石家荘へ奉遷致す

   予定であります。

   実は早速ご報告申上げなくてはならなかったのでありますが、何を何からして良きやら

   気も落ち着かず、又其の他の任務もありまして心ならずも今日まで延引致して居りまし

   て、何共申し訳もありません。平にご寛容下さい。

   尚御送付致しました金圓(金二十参圓五銭也)甚だ僅少でありますが、ご受納下さり

   たく願上ます。

   右金額の内金拾圓は第二小隊長坂倉理喜雄殿、六圓七拾五銭は第二小隊各位の御志ざ

   しでありますから左様ご承知下さい。

   第一小隊は小沢菊次郎曹長以下四十六名であります。

   心身やっと落ち着きました昨今、折からの月明追憶がそれからそれと走馬燈の様に現れ

   まして追っても追い切れず征衣の袖を濡らした夜も幾度か、嗚呼中隊の右翼小隊長とし

   て全中隊の敬慕を一身に集められし隊長殿の雄々しき姿、清濁併せ呑むの気風、小事に

   拘泥しなかった。

   どんな事でも我等の云った事は相談に乗って下された等々。今や其の隊長殿なし、

   嗚呼ーー


      武士のかねての道と悟りしつつも尚しのばるる君がおもかげ  讀人不知

      黄昏や亡き隊長の魂訪へば先立つものは涙なりけり      讀人不知

   
   末筆乍らご家族様ご一門方々に宜しく御鶴声の程願上ます。

                         倉田部隊故小山隊員

       小山かよ 様


邯鄲に於ける慰霊祭.jpg

  邯鄲に於ける合同慰霊祭

 
小学校での葬儀1.jpg

  町の小学校における葬儀


小学校での葬儀2.jpg


祭粢料.JPG

  祭粢料


説経節.jpg

  説教節 (作詞 山岡遺們 鐡人 、作曲 若松國士大夫)


岩城自動車隊隊長書.jpg

  第五兵站自動車隊隊長 岩城庄助書
          




為 武光院顕忠義雄居士菩提

 小山太郎君は昭和12年7月事変勃発と共に応召、近衛工兵連隊倉田部隊第一小隊長として勇躍

 征途に上り、その戦線に立つや第16師団兵站司令部附となりて、道路に橋梁に爆破に偵察に

 よく工兵の本領を発揮しつつ第一線部隊と共に固安、保定等の堅塁を抜き、保定に於いては

 諸部隊に魁して入城するの光栄に属す。その後、第一軍兵站監部附となり、更に定縣、新楽、

 東長寿、正定、石家荘と出で、太原戦に加わり賛皇に至り此處にては小隊を率いて一個師に

 余る敵の包囲を破り友軍の急を救う等健腕を揮したるも、その後、命により石家荘にとどま

 り陣地構築に警備に討伐に一日の寧日もなく、特に同地都市計画に基ずく循環道路構築には

 よく能を発揮す。昭和13年2月山西の残敵掃討の陣を進むるにありては第五兵站自動車隊の

 隷下に入り一ケ月に余る討伐戦にもよく工兵の本領を発揮して勇敢なる行動を認められ三月

 下旬再び邯鄲にて命を受けて山西省潞安に至る軍需品の輸送自動車の護衛として便乗、任を

 果たしての帰路、河南省响堂舗の山岳地帯に於いて俄かに十倍に余る敵の襲撃に合い直ちに

 応戦よく応戦すること四時間半遂に胸に数弾を受けて壮烈なる戦死を遂げらる。

 時に昭和13年3月31日午後1時25分なりという。何ぞそれ壮なる嗚呼希くは忠魂長へに加護

 を垂れ千歳の下皇基の守護たらんことを。

                                 川口市 第一校睦会
nice!(0)  コメント(2)  トラックバック(0) 
共通テーマ:blog

nice! 0

コメント 2

kyou-ko

初めまして、軍事郵便に興味を持っているものです。
突然ですが、【日華事変・北支からの便りと写真帳】は今どこに保存されているでしょうか、聞かせていただきたいです。
中国人で中国の高校で日本語教師をやっており、日本の軍事郵便と戦争時の状況を研究しています。共有してくださった資料はとても価値があると思いますので、詳しく情報を教えていただければ幸いです。
大変恐縮ですが、よろしくお願いいたします。

by kyou-ko (2020-07-29 23:51) 

美穂

初めまして。私はこの回の記事に傷病者で記載されておりました小久保利三郎の孫です。祖父の手帳に小山様の名前があったのと、日記に記されていた事柄とこちらのブログの期日や場所などが一致していたので祖父であると確信いたしました。白黒の多数の写真の中から祖父らしき人を見つけられませんでしたが、感慨深く読ませて頂きました。

by 美穂 (2022-02-22 08:28) 

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

トラックバック 0

トラックバックの受付は締め切りました

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。