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高麗橋の誕生と東京大宮道 [歴史]

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高麗橋(埼玉県日高市)の誕生と東京大宮道
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埼玉県日高市の高麗川に架かる高麗橋の最初のものは、明治34年の1月8日に開通式が

行われました。

これは、東京大宮道(秩父郡大宮町より飯能町、豊岡町、所沢町を経て東京府に通ずる県道)

改良工事に伴い高麗村大字久保、大字高麗本郷間の河流に架橋を設けたものです。

工事中の高麗橋 .jpg
  工事中の高麗橋

高麗橋の開通式 1.jpg
   高麗橋の開通式1

高麗橋の開通式2.jpg
   高麗橋の開通式2



この橋の開通に至るまでには、大きな難関が控えていました。

まず、東京大宮道の秩父から飯能の整備を巡っては、吾野経由(正丸峠越え)か名栗経由

(山伏峠越え)かで、埼玉県議会では意見が分かれ議論が白熱したが、最終的に明治28年

11月に吾野経由を一等道路に確定しました。

また飯能から高麗村の横手へ抜ける古道は、最短距離ではあるが、飯能愛宕山前より山に入り

沢筋を通り、一部トンネルもくぐり、両側に山がせまる薄暗く寂しい道であったため、大字台

を経て東吾野へ通ずる現在の国道二九九号とほぼ同じ道筋に変換すべく誘致運動が始められ、

飯能町、高麗村より埼玉県知事宛てに「道路資格変換願」が出され承認されました。

そして、明治32年測量、33年工事完了という早さで、現在の飯能秩父線は完成しました。

明治33年の小山八郎平氏の控え帳(東京大宮改良工事摘要誌)によると、当時の工事費の

概要は下記の通りです。


東京大宮道改良工事費

  飯能町地内  金六千七百七十四円九拾銭五厘

         内

         金壱千三百五十円也  一回下金  人夫五千四百人賃  壱人 金廿五銭

                    六月五日請求下付 委任者 田村重兵衛 

         金壱千円也      二回下金  八月廿日請求 田村

         金          三回下金  十月     同人

         金壱千円也      四回下金  十一月三十日請求 田村

  家屋移転費  金弐拾八円      岡野重太郎

  仮道費    金参拾四円五拾銭   下付請求 委任者 山崎兼三郎

  仝飯能町臺入會暗渠費  金弐百六拾四円九拾五銭六厘


東京大宮道改良工事費

  高麗村地内  金壱万四千六百廿弐円廿四銭弐厘

         内

         金参千五百円也    人夫壱万四千人賃  壱人 金廿五銭

                    六月九日下付  総代人 加藤房之助

         金参百円也      三月廿八日下付 総代人 山口幸吉

         金四千七拾八円七拾八銭五厘 八月十八日下付 代理 田村

         金             十一月五日請求 仝  同人


東京大宮道改良工事費

  東吾野村地内 金四千三百九拾壱円三拾六銭九厘

         内

         金壱千五百円     一回下金

         金壱千廿八円八拾九銭 二回下金 八月廿日下付請求


東京大宮道潰地金額

  飯能町地内  金壱千八百九拾弐円五拾三銭弐厘

  高麗村地内  金参千八百九拾九円六拾六銭七厘

         金参拾九円也  墓地移転

         金百六拾円也  井戸移転

         金       仮道費

 
  高麗村大字久保
              對岸
   大字高麗本郷

  橋梁架設費  金六千百弐拾六円四拾五銭弐厘

         内

         金壱千円  請求代理 谷島良朔

               橋材之内下金

         金弐千三百四十円五十五銭五厘  十一月五日請求 谷島




橋梁架設の準備としての用地取得は早く、大字久保側の土地は開通式より6年も前の

明治27年4月4日に関係者立ち合いのもとに地所売渡証を作成している。

売渡証1.JPG

売渡証2.JPG


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