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戦前、戦後の教育 [歴史]

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発表者 元 川口第一国民学校(現 本町小学校) 訓導 小山次郎
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第三回 (昭和55年)

狭山・戦災の頃をしのぶ夕べ

体験発表全録音・その二

会場・狭山市広瀬神社社務所

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 みなさん今晩は。今日は、意義の深い会にお招き頂いたんですが、主旨に合うようなお話

 が出来るかどうか、まことに疑問でございますが、その点は一つご寛容の程お願い致します。

 こちらに参りました時、ちょうど映画の最中だったんですが、只今の映画は、だいたい昭和

 20年の1月、2月、3月頃の場面のようでありました。

 私が教えた生徒の中に、一番頼もしいと思っていた植木太郎という少年がいたんですが、

 その場面の時から一月後の4月15日にレイテ方面で壮烈な戦死をしてしまいました。

 今の映画を見ながらも、感無量でございました。

 それから、ここに「義勇」と立派な字で書かれております平野常造先生、この方は、私が

 大正15年に19歳で飯能の第一小学校の代用教員になったんですが、最初は吉川与一先生が

 校長でしたが、途中から平野先生と交代になりまして、後半は平野先生のお世話になりま

 した。そして、師範学校を卒業すると、また飯能へ呼んで下さるように随分お骨折りいた

 だいたんですが、北足立の視学の引力が強くて、川口方面へ引っ張られてしまいました。

 昭和の初期から31年まで、26年半ばかり、川口で過ごしたわけでございます。

 私が川口に赴任しましたのは昭和4年の秋でしたが、その頃は不況のどん底でして、

 世界的に大不景気でありました。

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 どこの国でも軍備にあまり金がかけられないので、出来る限り軍備を縮小しようという

 「軍縮会議」というのが行われまして、日本も参加しましたが、大国に対して、

 例えば十に対して六ぐらいの軍備しか持てないということで、青年将校が非常に憤慨を

 しまして、色々な事変が起こったわけであります。

 川口という所は、戦争があると軍需景気で膨れ上がってくる町でありますが、昭和6年に

 満州事変、それから7年に上海事変、さらに8年には日本が国際連盟を脱退するというよ

 うに、日本がだんだん孤立して緊張の時代になってまいります。

 その頃から、教育の面では日本精神とか、或いは国体論というものが非常に強くなって

 来まして、だんだんと張り切ってまいりました。

 昭和12年になりますと、ご承知のように日華事変、当時は日支事変と申しておりました

 が、これが起こりました。

 私の兄も7月に動員され、8月に内地を出て北支の方へまいりまして、あくる13年の

 3月31日には山西省の方面で戦死をしてしまいました。

 兄の遺品が帰ってまいりまして、その中に戦闘帽がありましたので、その戦闘帽を被って

 毎日通勤をするというようなことでした。

 その頃から、少年団の訓練等がだんだん盛んになってまいりました。

 昭和15年には起源二千六百年のお祝いがありましたが、16年になりますと「国民学校

 令」、それまでの尋常小学校とか尋常高等小学校とかが「国民学校」と言われるようにな

 りました。

 国民学校の目的というのは皇国の道に則って、つまり「すめらみく」の道に則って皇国民

 の錬成にあるわけです。従いまして、国体観念の下に、日本の国体を護持していくのに適

 するような人間を鍛えるのが教育の目的であるという風になってまいります。これが昭和

 16年の4月です。

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 そして同年の12月には英米に対して宣戦の布告ということになりまして、いわゆる

 「大東亜戦争」、第二次世界大戦に入ったわけであります。

 あくる17年の4月18日には、最初の空襲の洗礼を川口は受けました。

 川口はピストンリングとか、ディーゼル工業とかいう大きな軍需工場がありましたので、

 このディーゼル工業が、まず艦載機の爆撃を受けました。

 私どもはその時、何だか解らなかったんですけれども、何か騒々しいなと、まさか空襲

 とは思っていなかったんですが、学校の裁縫室へ戸板に乗せられた血だらけの工員さんが

 どんどんと収容されてきた。

 「何があったんだ?」
 
 「爆撃をうけたんだ!」 ということで、初めて知ったんですが、あれは日本の空襲の中

 では最初ではなかったかと思います。

 その頃から益々、学校教育も張り切ってまいります。特に昭和19年の3月には「学徒動

 員令」というのがあります。前年の18年には、学生の徴兵猶予が解除になりまして、

 学生でも徴兵年齢になれば、どんどん入営して戦地に行くことになる。

 19年に、今言った「学徒動員令」が出されまして、戦争目的のためだけに教育はあるん

 だと、こういう時代になりました。

 従って、もう小学生でも(国民学校初等科、高等科となりましたが)高等科は勿論のこと、

 初等科でも出来る仕事で軍需工場へ動員されまして、みんなお手伝いをしました。

 この19年には、私は第一国民学校という所にいたんですが、その分教場が川口の土手

 の中つまり河川敷にありまして、私はその分教場長でいたわけです。

 その頃、運動場、農地を合わせますと、約2町歩位の広い敷地があったんですが、そこに

 主としてサツマイモ、それから麦、終いには運動場全部を掘り起こして、これをカボチャ

 畑にしちゃたんです。

 何れにしても分教場は高等科の生徒が主として行っておりまして、朝から晩まで、草刈り、

 堆肥作り、そういった農作業で一日は終わります。

 草刈りは‥‥。、校長が(浦和に住んでいたんですが)4時36分、川口着の一番電車で

 やって来ちゃうんです。それまでに、もうすっかり鎌を研いで、ズーッと土手へ並べて置か

 ないと機嫌が悪いわけなんです。

 こっちは4時頃から行きまして、その準備をしておくというと

 「おはよう!」なんて言って 「じゃあ始めっか!」と、それから始まるわけです。朝露の

 草を授業前に刈ってしまうんです。

 11月の3日には川口の上空にもB29が現れました。その頃は爆撃はしませんで、偵察

 なんですね。いろいろと細かく写真を撮られてしまったらしいのです。高いところを毎日

 のように飛んできて、ギラギラ見せびらかしながら、写真を撮ったらしいのですね。

 分教場は土手の外にありまして、学校の東に赤羽に行く大橋があるんです。そして学校の

 敷地の西側には鉄道の鉄橋があるんです。この大きな橋の間にある学校ですから、マァ、

 後になって考えたら、橋は爆撃しなかったわけなんですが、当時はそんなこと解りません

 から、むしろ鉄橋にしても、大橋にしても爆撃されると思っていたんです。

 従って、そこに勤務している私は、当然、もうどっちがやられたって吹っ飛んでしまうと

 思っていましたから、もう本当に気持はサッパリしていたわけです。

 その後、虫歯になったんですが、歯医者に行って歯を治したって、治るまで命が持つか

 どうか分りゃしないから、「マァ、行くこたぁなかんべぇ」と言う訳で、歯医者へ行くの

 を止していたくらいです。

 19年には、校舎の半分を防衛隊用に削りまして、学校の授業の方は、西の方の半分に

 全部を集め、東半分は防衛隊に六教室を解放したわけです。

 防衛隊が入ってきた頃の事ですが、学校では当時、コロを混ぜると豚を三十何頭か飼って

 いました。子供が朝登校する前に、当番班がパイスケで各家庭の厨芥を持ってきて、厨芥

 で豚を飼っていたわけです。

 時には豚さんも妊娠もしますんで、一晩中提灯を点けて腹をこすったりしながら、

 「お産婆さん」をしたんですが、なんてったって何匹も生みますから、夜中から朝まで、

 一晩中かかってしまうわけなんです。

 できかかると裁ちバサミでヘソの緒を切って、「一丁あがり!」というわけで、パイスケ

 の中へ豚の仔を入れて教員室へ持っていく。まわりのヌルヌルしたやつを剥がしてやると、

 もう教室の中をパカパカ跳んで歩いているんですね。こっちは「いい面の皮」で、一晩中

 デッカイ腹をなぜながらお産の手伝い、終いには交尾の手伝いまでしてやったもんです。

 そんなことで豚が三十何頭か居た他、分教場の方ではヤギも飼っていました。

 ヤギ小屋がだいぶ汚れたので、私が軍服の古いのを着て戦闘帽で、汚い手拭いを腰に

 ぶら下げ、ヤギさんのウンコや何かを掃除してますと、(防衛隊が入って来た日で)

 防衛隊も大掃除なんですね。屑がうんと出たんです。

 そうすると軍曹殿がやって来て、「おい、爺や!」てわけです。

 「この学校は大きい学校だなぁ! ゴミ捨て場はどこにあるんだ?」

 「ずっと向うの運動場の隅にあります」

 「大変だなぁ、爺やもこんな広いところで‥‥まぁ体に気をつけてな、しっかりやれよ」

 というわけで、すっかり「爺や」さんになっちゃった。

 ところがその晩、防衛隊の方でお世話になるんだからというんで、学校の先生を全員呼ん

 で御馳走をして下さる顔合わせの会があったんです。

 私は分教場の主任ですから、中央に座らせられてしまったんです。その脇に中隊長がいて、

 こちら側に職員がズーッと並んだわけです。

 そうしたら、軍曹殿が教室の中なんですけれども、歩調をとってポッカポッカ歩いて

 来たんです。

 中隊長が「何だ?」

 「いや、知らぬ事とは申しながら、主任殿を爺やと申し上げて仕舞いましたので、謝罪

 にまいりました」

 「このバカヤロウ!」というわけで軍曹さんは中隊長に怒鳴られましたが、そんなことが

 あってから、お陰様で兵隊さんとの人間関係が非常に良くなったんです。

 当時、我々は麦やサツマを食べたんですが、宿直の朝はドンブリ一杯のお米のマンマ、

 若干コーリャンが入っていましたが、お米のご飯とオミオツケですね。これを宿直の先生

 には必ず持ってきてくれたんです。みんな宿直するのが楽しみになったくらいでした。

 もちろん、夜になると空襲になるので、物騒ではありましたけど、とにかくご飯が食べら

 れるというようなことでありました。

 朝になりますと堆肥作りやなんかがありますんで、校長室で作戦会議があるわけです。

 私が農事作業の親玉ですから、私がいつも校長室へ行って承ってくるんです。

 校長と向き合って腰かけて、「今日はな、第一時間目は〇〇学級の‥‥第二時間目は

 〇〇学級が堆肥の方」とか、いろいろ作戦を練ってくるんですね。

 その話の最中に、校長の机の脇には爪を切る小さなハサミがぶら下がってんですが、

 いきなりそのハサミを取り上げたんです。爪でも切りながら話をするのかなと思って

 いたら、私の鼻をいきなり掴んだわけなんです。アラアラ、と思っているうちに鼻毛

 を切られちゃったんです。

 今年で73年生きているんですけれども、鼻毛を人様にパッと切られたのは初めてなん

 ですが、皆さんはありますか?

 それはそうと、生命はなんでもなかったんですが、子供にも死ぬことを教える時代であり

 まして、生きることを教える時代ではないんです。「死」ということが周辺に漂っている

 ような時代ではありましたが、今のようなユーモアが時々あったんですね。

 特に草刈り。学校側の土手がほとんど刈りきってしまったもんですから、赤羽側の土手

 まで手を伸ばしたわけです。そうしますというと、赤羽へ行きますには大橋を渡って行く

 のですが、大体、800メートルあるんです。それを渡って、向う側で草を刈るんですね。

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 そこで、校長が

 「今日は俺が向うへ行って指揮するから、小山はこっちの指揮をとれ」て、わけで、私は

 学校側の土手で指揮を取っている。そうすると赤羽側では、校長が隊長で草刈りをしてい

 るわけです。

 時々、伝令がやって来るわけですね。800メートルの橋を駆け足でやってくるんだから、

 これは大変なことです。

 高等科の生徒ですが、向うから来ると、草を刈っている私に挙手の礼をして

 「伝令!」

 「何だ?」

 「只今、校長先生があそばされました」

 「何をあそばされた?」

 「屁です!」

 なんてわけで、草を刈りながら校長がぶっ放すらしいんですね。そうすると伝令がそれを

 伝えに800メートルの橋を駆け足で渡って私の処へやってくるんですね。

 そうしているうちに、また空襲警報が鳴る。防衛隊と一緒ですから、彼らが深い立派な

 防空壕を掘ってくれまして、そこへ皆で逃げ込む。こういった状態だったんです。

 川口という処は海抜が3、4メートルでありますから防空壕といいましても、本校の方

 にも掘ってあるんですが、どちらも一尺も掘ると水が出ちゃうんです。湧いてしまうん

 です。海抜がゼロに近いんですから‥‥。ですから深く掘れないんですね。しょうがない

 ので、深くても1メートル位掘って、あとは上へ泥を重ねたような、まことに一撃のもと

 にやられてしまうようなものです。中は水が溜まりますから「渡り板」を渡したり、

 子供の腰掛けを並べて水から逃れるようにしてある。そういう防空壕へ飛び込むわけで

 あります。そのようにして19年を過ごします。

 20年には教頭になったんです。教頭の任務は、ご真影、勅語、その他の詔書類の守護

 ですね。

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 奉安殿の中に、ご真影と教育勅語、その他の詔書などが、リュックサックのような背負い

 袋に入っておりまして、いざとなったら、教頭がすぐにヒッチョッテ、警察署へまず退避

 する。警察署が退避所に決まっていたわけです。

 空襲警報が鳴ると、私はすぐ学校に行って奉安殿の側で過ごすわけです。ですから夜は脚絆

 を着けたまま寝ているのです。たいてい夜いらっしゃるので‥‥。

 家族は空襲警報が鳴ると、お父っつあんには居てもらいたいんですが、お父っつあん殿が

 教頭だから、そうばかりしてはいられないんで、まず一番先に飛び起きて学校へ吹っ飛んで

 行ってしまうんですから、かなり心細かったと思うんですね。

 マァ、居たって大した違いじゃないでしょうがね‥‥。それでもご真影の守護は、これは

 任務でございますから、欠かさずやっておりました。

 そして、19年3月に「学徒動員令」、20年の3月には「戦争教育令」というのが

 出されたんです。

 これは、国民学校の初等科以外は、一年間授業停止という法律なんです。初等科は授業を

 してもいいんですが、初等科以外の上の生徒、学生は、一年間の授業延期、全員工場等に

 動員されて軍需産業のお手伝い、そういう時代でありました。

 従って、朝礼などの時も、いつ空襲警報が鳴るかわかりませんから、カバンを背負ったまま

 なんですね。そして、待っている間、子供はみんな読本を読んでたんです。

 朝礼の始まる前は、全部「読み方」の本を出して、声を出して本を読む。そういう朝礼

 だったんです。

 始まると校長が簡単に話をして、とにかく、一分一刻を争って授業をする。空襲警報が鳴る

 と、すぐに子供は帰ってしまう。ですから、みんな防空頭巾を被って登校と、こういうこと

 であります。

 勉強する時間がないから、夕方は家で子供に読ませろ、音読させろということで、本を声を

 立てて読ませる。声を立てずに読んでいると、先生が廻って行ってもわからないわけなん

 です。ですから、声を立てて読んでいてくれれば、先生が地区を分担して一回り廻ると、

 この地区はみんな勉強しているな、ということがわかるから、夕方になると子供たちは、

 家でデカイ声を出して「読本」を読むわけです。

 そういうように、読める時、勉強出来る時に勉強をしなければ、いつ空襲になるかわから

 ないから、ということで、時間を惜しんで勉強をしました。 

 8月15日に終戦になったわけでございます。終戦になりますと、第一の任務は何かとい

 うと、ご真影、それからお勅語や詔書の謄本類を返還すること。これは教頭の任務であり

 ます。随分急がされたので急いでやりました。

 ぐずぐずしていると、進駐軍がチョイチョイ廻ってきますので、ボヤボヤしていたら巻き

 上げられてしまいますから、本当に急いで市役所に収める。

 それから、続いて奉安殿の撤去なんですけれども、これが実に頑丈に出来てまして、とても

 学校にある道具ぐらいで、ひっぱたいた程度ではコンクリートが壊れない。

 仕方がないから、奉安殿の後ろにデッカイ穴を掘りまして奉安殿を倒して埋めたわけです。

 そしたらコバ(角)が出てしまいまして、うまく埋まり切れなかったんですけれど

 「泥を盛ってしまって築山にしてしまえばよかんべぇ」ちゅうわけでして、いまだに埋ま

 っているはずです。

 それから忠霊室というのがありまして、戦死された方の写真が飾ってあったり、戦利品

 などがあったんですが、そういう所を、まず撤去しなければなりませんでした。

 そして、教育内容としましては、まず「読本」の中で、或いは教科書の中で、国体に関する

 ことは、全部墨で塗りつぶす。或いはハサミで切り取ったりして、そういうところは教科書

 から全部抹殺をしました。そして、「修身」と「国史」が無くなったんです。

 代わりに「社会科」と「家庭科」というのが出来たわけです。

 今でも「修身」が無くなったから、どうも今の子供はゾンザイてる、行儀が悪いと、時々、

 そんな声を聞きますけれども、戦後の教育の大転換で一番先に手を付けたのが「修身」と

 「国史」という教科を抹殺したということです。そこから始まったわけです。

 このように終戦後に教育の大転換が行われたのでありますが、第一には、教育というものが

 国民の権利になってきたわけです。

 「義務教育」といいますが、義務というのは親の義務なんです。子弟を学校に出す親の義務

 でありまして、国民は全員、教育を受ける権利がある。憲法の26条に「すべて国民は、

 法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する。」

 と、こういうふうに明記されてまして、国民が教育を受けるということが、国民の権利に

 なったんです。

 その次に大きな転換は、今までは、いわゆる皇国の民という枠の中に詰め込むのが教育で

 あったんですが、今度はそういった国体観念は一切抜きにして、「民主教育」というよう

 に変わってきた。

 それまでは、つまり教科書を学んだんです。教科書は「国定教科書」でありますからその

 教科書を、その通り学んだんでありますが、終戦後は、教科書を学ぶのではなくて、今度

 は検定の教科書で、各学校で自由に選んで使う教科書になりましたので「教科書を」じゃ

 なくて「教科書で」学ぶというふうに変わったわけでございます。

 それから大きな変化は、国民学校の初等科、高等科、それから中学校、商業学校など、

 いろいろありましたけれども、これらを6学年の小学校と3学年の中学校、9ケ年の義務

 教育として確立したわけです。

 今までは六年間の義務教育だったんですが、小学校、中学校の九年間の義務教育、これが

 いわゆる六・三制です。それからもう一つ関連して高等学校とか専門学校、大学等を

 再編成して、これを新制の大学にしたわけです。

 六年の小学校、三年の中学校、三年の高等学校、四年の大学、こういう一本の線で学校

 体系というものが大きく変わりました。

 その内容は子供の個性の尊重ということ、今までは個性なんてどうでもいいんです。

 どんな持ち味があっても、そんなことはいいんで、みんな皇国民という枠の中にはめ込ん

 でいく、

 そういう教育であったわけであります。

 けれど今度は個性の尊重、子供の持ち味を生かしながら教育方法や教育内容を作っていく、

 そう改められました。そのためには、まず文部省の権限が変わってきた。

 文部省というところは、学校の指揮、監督をしていたお役所なんですが、国立の特殊な学校

 以外は指揮、監督を避けた。そうして教育内容の基礎を作ったり、或いは指導・助言をする

 基準づくり、こういうふうに文部省の権限が薄れてきたわけです。そして従来のように文部

 省の命令で教育を動かしていくことができなくなった。

 戦前は教育というものが勅令で決められたんです。つまり、議会にかける必要がないんです。

 「勅令」で、つまり天皇陛下の命令で「勅令立法」というものによって教育の法律が決まっ

 てきたわけですが、終戦後はこれらが国会の法律によって決まる。つまり、国民の代表の

 国会議員の議決によって法律が決まる。

 つまり、教育が国民自身の手で、在り方を決めていくというようになり、今まで自由に指揮

 をとっていた文部省が、指導、助言をするだけというふうに変わってきたわけであります。

 さらに学校教育だけでは良くないということで、社会教育が盛んになってきました。

 従来は、日本の国は家庭と国家があったけれども社会がない、というふうに言われていたん

 です。つまり、忠良な臣民を家庭で養って、すぐに国家に尽くす。こういう縦の関係の強い

 組織でありましたが、今度は横の関係、国民同志のお互いの自覚を高め、それによってお互

 いを盛り上げる。そういった教育を必要とするということで、社会教育というものが生まれ

 てきまして、公民館などを社会教育の中心として置くようになったということです。

 更に勅令から、議会により法律が出来るようになったと同時に、教育という仕事が地方での

 権限、市町村の義務になってきまして、設置の義務、管理の義務が、県、市町村に、みな移っ

 て来たわけです。

 そして、昭和22、3年に、教育委員会制度ができました。初めは教育委員は選挙で選んだ

 のでありますが、後に市町村長の任命ということになったわけです。

 教育長とか、指導主事とか、社会教育主事、こういったような専門家ができました。

 私は、昭和21年に校長になりました。終戦後のドサクサの時でありました。当時、教員

 組合では対策委員会というのをつくりまして、大宮に本部を置いて、県庁などへいろいろ

 交渉に行ったわけでありますが、私もその対策委員会などにも引っ張り出され、校長をや

 っていながら学校を留守にして大宮の本部へ行っていることが非常に多かったんであります。

 教育委員会制度が出来ましたので、私もまず指導主事の講習を受けようと思って昭和23年

 の9月から12月まで東京へ通いまして、第一回の講習を受けました。講師は勿論アメリカ

 人でありました。

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 内容についてはそれほど目新しいこともなかったんですが、やはり、講師の人柄といいますか

 これにはやはり打たれました。さすがに講師として派遣されているだけありまして、人柄が

 非常にいいんです。人間性豊かなものを持っていまして、その方の影響を多分に受けた感じ

 がいたします。

 三か月間、指導主事の講習を受けて、24年から川口市の教育委員会に入ったわけであります

 けれども、当時は何れにしても制度が変わり、しかも紙がない。

 教科書でもなんでも、ぞんざいな紙でしてね、ノートなども十分に無いわけです。非常に窮屈

 な時代でありました。

 白墨なんかも、今のは円筒形で太さが同じなんですが、昔の白墨は片方が細かったんです。

 先が少し細くなっていた。新しい白墨使うとき普通はどうしても太い方を持ちますね。怒ら

 れちゃったですよ。太い方を持って書いたら‥‥。何故怒られたかって言うと、太い方を

 持って書くと、最後の残りの体積がデカイちゅうんです。細い方を持って書けば、短くな

 った時の残りの体積が少なくて済む。だから白墨を有効に使うためには、細い方を持って

 書かなくてはいけない。

 一度使った封筒などは、裏返しして貼り付けてまた使う。或いはそういうものを貯めてお

 いてノート代わりにする。こういった物の乏しい時代であります。お米なんかはなかなか

 食べられませんでした。当時、200円出すと「闇米」が買えたんですが、私は麦で我慢

 してました。

 麦かサツマで‥‥。

 家の次男坊なんか、離乳食といいますか、オッパイから一番先に食べたのは麦飯ですよ。

 全部麦です。ムンズラひっ掴んで、私たちがウッカリしている間に、茶碗を倒して、

 それを食っちゃったんです。これが離乳食でした。「大丈夫そうだから、じゃぁ、これで

 いくか」というわけで、麦で育てたのが、デカクなるもんですね。いま、179センチ、

 私が上を向いて小言をいうんですから‥‥。そんな時代でありました。

 とにかくものが乏しい。昭和25年に衣料切符が廃止になったんですが、木綿の手拭い買う

 にも、切符を何点も取られてしまいます。

 26年に講和会議があって、それから独立国になったんですが、それまでは大変なもので

 した。学校へも進駐軍の二世がチョイチョイ廻って来ました。日本語も英語も、両方話せ

 ますからね、具合が悪いんです。

 終戦後、教科内容が変わったことと、食糧事情によりまして学校給食が始まったんです。

 アメリカから送って来る小麦粉でパンを作り、脱脂粉乳を飲ませて、それから、アメリカ

 製の缶詰が配給されたんです。

 この缶詰がうるさいんですよ。いきなり、進駐軍の二世が威張ってやって来て、

 「校長さんいるか?」なんて、校長室入ってきまして、「缶詰いま何個ある?」いきなり

 聞くんです。

 何個あるかって言われったって、何百個も倉庫に積んであるのを、、いちいち勘定する

 わけじゃないから、凡そのことを言うと、「凡そではいけない、正確に言え!」なんて

 言うんです。

 しょうがないのでその後は手帳に書いて置くんです。何の缶詰が何個来て、何日に幾つ

 使って、現在何個残っていると、手帳に書いておかないと、何時脅かされるか判らない。

 そのようにして、アメリカ進駐軍の影響が多分にある学校給食というものが始まりました。

 それ以前は、先程言いましたように、養豚をやっておりましたから、学校の豚を時々、

 屠殺場へ持っていっては豚汁の給食です。子供が食事をする時、戦争中から時々、豚汁を

 作りまして、お昼の時に子供に食べさせたんです。

 ところが、屠殺場でやりますと、臓物を取られてしまうんですね。あれが中々栄養価が

 あるんだから、これを取られちゃたんじゃ、というわけで、悪い事とは知りながら、

 「一丁やるか!」ちゅうわけで、蜜殺をやったわけです。たくましいやつを、間宮君と

 いう同僚と私の二人で、薪割りを逆に使って、豚がのり出してくるやつを、間宮訓導が

  ”ポカッ” とやるんです。

 ところが、なかなか命中しないわけなんです。一発でいかないんです。屠殺場ですと

 一発なんです。電車の改札口みたいな処に追い込まれて出てくるところをポカッと一発、

 コロッといってしまう。

 これはわけないないと思って、まして薪割りだから一発で充分と思った。ところが、三発

 やっても四発やってもダメ。終いには、恨めしそうな顔をしてジーッと見ているわけなん

 です。でも、十発位くれて、やっと退治しまして、これを井戸端へ持っていってぶら下げ、

 毛をむしるわけですね。この仕事も屠殺場で見ていると、簡単にサーッとやってしまうわけ

 なんです。

 訳ないものと思って、ナイフを研いでやってみたら、いやはや、ちっとも毛が取れないわけ

 なんです。みんな肉へくっ付いちまうんです。

 やっとむいて、いよいよパイスケのなかへ肉を分けて、良い肉と、待望の臓物まで、ちゃん

 とパイスケへ入れて、ニコニコしていたところが、不幸というものは何時来るかわからない。

 県から派遣されて屠殺場に来ている警察のお医者さんは屠殺して調べた後に、精肉の検定済

 のハンコを押すんですが、そのお医者さんが、川口の町のパン屋でお茶を飲みながら世間話

 をしていたら、国民学校の生徒がお椀をぶら下げて行くので、

 「オイ、兄ちゃん」と呼び止めて

 「今日は何だい?」と言ったら

 「今日は豚汁だい!‥‥

 「ハテナ?、第一国民学校じゃあ、昨日も今日も屠殺場へ持ってこねえんだけども、

 おかしいな」というわけで、内偵から密殺がバレてしまったわけです。それで、肉を全部

 「封」されちゃったんです。しょうがないから、半紙一枚へ「謹書」で私が始末書を書い

 たんです。

 私も、色々なものを書いていますが、豚の密殺の謝罪の始末書なんていうのは初めて書き

 ました。それを書かないことには食えないわけですから‥‥。「今後一切、かかる不法行為

 致しませんから、どうぞお許し頂きたい」という意味のことを、長々と名文句で書きました。

 「そもそも」というところから始めて、書くわけです。「児童の栄養の大切なこと」を書い

 て「ところで」と本論に入るわけで、非常に名文の始末書を書いたわけです。それによって、

 やっと解除になったんです。

 ところが、そんなことで行ったり来たりしているうちに、臓物は腐っちゃいました。肉の方

 だけは、やっと助かって生徒に給食できたんですが、「密殺は止すべえや」というわけで、

 以後は屠殺場へ持っていきました。

 持っていくのも大変なんです。簡単に籠に入る代物じゃない。豚小屋から運動場へ出して

 上から籠を被せるわけなんです。ところが、逃げ始めると、あれは結構速いですからね。

 実に速い。とってもスバッシコイですよ。それを、籠を持って追っかけてって、上から被

 せて、下へ太い竹を突っ込むわけですね。それからヨイショと起して持っていくんですが、

 一度、屠殺場の近くで逃げられてしまいましてね。畑の中へ逃げられて、ひどい目にあった

 ことがあるんです。とっ掴まえるのに大変な時間がかかりました。そんなこともありました。

 戦争中を振り返りますと、それは、命を捨ててかかってる教育でありました。国民錬成の時

 であり、また、昭和16年以降は、満蒙開拓青少年義勇軍、現地では「青年義勇隊」と言っ

 ておりましたが、義勇軍を高等科の生徒に勧めて、満州へ行ってもらうよう働きかけたり、

 私も随分送り出しましたが、でも幸いにして、全員が無事に帰ってこられましたから非常に

 ホッとしました。

 そのほか、高等科を卒業してすぐ、少年航空兵として出ていく子供たち、16年以降という

 ものは、高等科卒業の生徒は学徒動員で工場へ出る。或いは満蒙開拓青少年義勇軍となって、

 満州へ渡っていく。

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 昭和17年に私も義勇軍の農閑期に授業をするので、11月末から12月の終わりまでの

 約1ケ月間、中隊長の家に泊まりまして、勉強のお手伝いをさせてもらったんですが、

 中隊長のお宅のペチカがボッコレましてね、家の中でも零下10度なんです。鼻をかんで、

 枕元へ置くとすぐ凍ってしまうんです。小便をすると、そばから凍ってしまうから、

 ブッカキ、ブッカキ小便をする。あれは嘘です。しているうちは凍りやあしません。

 したのが下に着地すると、すぐに凍ります

 お風呂へ入りましても‥‥。材木工場にお風呂がありまして、そこの視察に行った時、

 お風呂を貰ったことがあるんですが、工場を出て、手拭いをぶら下げ、二振り、三振り。

 三振り目ぐらいにはパッと手拭いが真っ直ぐに立ちますね。

 そういう寒い時に、義勇隊に一月お世話になって生活を共にしたのですが、訓練生は高等科

 を出たばかりですから、14,5歳の未だ少年です。それが順番で兵舎の不寝番に立って

 いるんです。防寒服を着けて‥‥。そうすると狼の鳴き声が聞こえてくるんです。

 狼の鳴き声というのは、サイレンと同じですね。「ウォー」と、あの空襲警報みたいなもの

 です。その中に、着剣した14,5歳の義勇隊員が防衛しているんですが、涙がこぼれます。

 帰りには教え子の隊員が、一人で駅まで送ってきてくれましたけれども、非常に張り切って

 おりまして、大変、教えられるところがありました。

 帰りには自由時間がありましたので、ジャムスという処に私の甥が入隊していたので、折角

 満州まで来たんだから、面会していこうと思って、ジャムスで降りました。

 そして、「〇〇部隊は何処ですか?」と聞きましたが、なかなか判らないんです。みんな

 秘密部隊ですから駅で聞いても判らない。兵隊さんに聞いても判らないんです。

 どこで聞いたら判るかって言ったら、憲兵隊へ行ったら判るかもしれませんと言うんで、

 駅の近くの憲兵隊へ行って聞きましたら、バスで四合屯迄行って、そこで降りれば近いと

 言うんです。ああ良かったと思いまして、バスに乗ったんですが、何しろ全部満人です

 から、日本語は通じないわけです。終点だと聞きましたから、一番終わりまで乗ってりぁ

 いいな、と思ってましたら、畑の真ん中みたいな所で降ろされたんです。何にもありゃ

 しないんです。

 遥か向うの森のような所に、兵舎のようなものがありましたから、そっちへ行ってみますと、

 柵がありまして、立札がしてあるんです。「この柵内に入る者は何人たるを問わず銃殺に処

 すべし」。秘密部隊ですから部隊名の看板が掛かってないんです。だから「119部隊」

 というんでしたけれども、見つけるにも見つけようがないわけなんです。困ってしまって、

 ガッカリして、手足も凍えてきそうになったんです。厳重に毛糸の手袋の上に、毛皮の

 手袋をしてたんですが、手が動かなくなってしまうんです。

 しょうがないから、道路へしゃがみ込んで、いわゆる「きん〇〇火鉢」ですね。中で温める

 以外、温めようがないわけなんです。

 温めいるうちにハイヤーが一台来たんです。見ると兵隊さんが乗っているんです。

 「シメタ!」と思って、止まってもらいまして、「119部隊はこの辺でしょうか?」

 と聞いたらば、私が「青少年義勇隊奉仕団」の腕章をしてましたから、兵隊さんも尊重

 してくれまして、「いや、実は私もその部隊へ行くんだから一緒に行きましょう」

 「地獄に仏」っていいますけれども、こんな嬉しかったことはないですね。

 そしてハイヤーに乗せていただきまして、部隊へ行ったわけです。

 そうしますと、衛兵所に赤々とストーブが燃えてるんですね。そこで、やっと手を炙ら

 せてもらったんです。兵隊さんが赤羽の工兵隊にいたことがあって、「川口にはよく演習

 で行ったんで知ってますよ」なんて言われまして、大変気を強くして

 「実は甥の星野弥一郎に面会に来たんです」
 
 「それではお待ち下さい」

 と言って、兵舎の方へ行ったんですね。しばらくして帰って来て

 「まことにお気の毒ですが、星野一等兵は只今出張中です」。

 「いや2,3日ならジャムスで泊まって待っていますが幾日くらいで帰りますか?」

 「さあ?、中支の方へ出られましたから、何時というわけにはいきませんです」

 そこいらへ出張したんじゃないんですね。中支へ行っちゃったんです。それでとうとう

 逢えなかった。

 その甥も南方戦線で戦死してしまいまして、その時逢えればと、そんなことを思い出して、

 当時を忍んで、まことに懐かしいやら、その時分の張り切っている姿というものが思い出

 されるわけであります。

 戦前の教育、戦後の教育。戦後の教育は新教育なんていいますけれども、何かこの、捨て

 なくていいものを捨ててしまったんじゃないかといった、そんな反省を持ちますね。

 もっと取って置くべきものを、終戦のドサクサに紛れて、みんな、大事なものまで、

 うっちゃたんじゃないかと思うわけです。いかがですか?、皆さんの感想としては‥‥。

 捨てなくてもいいものを捨ててしまった。そんな感じがしみじみとするわけですが、

 それは、後の皆さんとの懇談の時に、ご意見等ありましたならお聞かせ頂きたいと思います。

 今日は、平野先生のご命日です。ご冥福をお祈りしながら、拙い話ですが、今日のこの集い

 には誠に不釣合いな話ではありましたが、戦前、戦中、戦後の教育というものが、大きな

 変革をしたという、きわめて大あらましのことを申し上げました。

                                                     (おわり)

タグ:歴史
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