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日華事変・北支からの便りと写真帳(No,1) [写真]

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 近衛工兵連隊倉田部隊小山隊(第一小隊)隊長の陣中便りと写真帳
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祝出征.jpg

  飯能町での出征兵士の見送り


東京駅発富士.jpg

  東京駅発富士にて征途に上る(昭和12年8月16日)


厳島神社にて.jpg

  途次、厳島神社にて戦勝祈願(右より坂倉少尉、小山少尉)


釜山閑野氏宅にて.jpg

  朝鮮 釜山府大新町 閑野作次郎氏宅にて(出水の為2週間お世話になる)


   『 写真の裏書き』

   この日、昭和12年8月31日。釜山北方約6Km洛東江口下端に遊び釣舟を出す。獲物鯛

   二尾、スズキ(一尺大)7,8尾、小鯛数十尾、ハゼ数百尾等々至極大漁なり。

   よって帰りて小隊幹部、有志を集め大演芸会を催し、牛飲馬食す。この席に於いても

   小隊長は亦、隊長の資格を充分に発揮す。後方に立てるは、前二週間御厄介をかけたる

   宿舎主、閑野氏御一家なり。この日使用せる酒七升。宿酔せず。 9月2日記す 太郎


   『 小山次郎様 宛て 』

   滞在実に二週(出水に依る。鉄橋故障。南満)愈々、当地発天津へ明3日午前と決定

   しました。当月中旬には戦線に立てそうで一同勇み立っています。 9月2日

釜山にて崔氏と.jpg

  釜山で交友を深めた崔浩範氏の見送り


天下第一関(山海関).jpg

  天下第一関(山海関)


   『 岩田祐一郎君 宛て』 

 11月15日お手紙正に本日(15日)落手。北支の月は冴えわたってあり。「そぞろに思う

 故郷の」というわけです。今日前線からここ(石家荘)に引揚げて来たところです。

 前文(賛皇から)と重複するか知れないが総括的にお知らせします。(時々気分を出しま

 すよ)大野、沼崎、栄ちゃんなどにも見せて下さい。一般地図では判らない地名もあるで

 しょうが、適当に位置を想像すること。


 9月11日 永定河攻撃戦開始。第14師団、第6師団は各固安左右両翼に於いて敵前渡河

      計画。


    14日 渡河前進するも固安は落ちず。


   15日 暁の大爆撃。この時私は部下小隊を率い黄村5時行軍にて発、西紅門に自動車隊

      救援に 赴く時、この爆撃空軍南苑飛行場方向より来るに逢い思わず快哉す。


北支ー11.jpg

   16日 永定河上流(といっても豊台付近)に出で南進固安に向かう。左岸堤防上を前進

      (ここにて15日我が第二小隊戦斗負傷者を生せり)その日は6キロの行軍。うち

      の兵隊は前田の政ちゃんみたいな老人が多いからあごが相当出た。然し、第一回

      戦だからみんな緊張。右岸には盛んに機関銃の音、重砲の響き。その夜は石袋村

      にて村落露営。夜半屋上より眺む。

      朝来の砲声益々盛んなり。部落には人影なし。我が歩哨の銃剣の光ものすごし。


北支ー12.jpg


  17日 早暁固安流石に陥落(この事は後で知る)。我らは楡垡鎮に至り、この日は午後に  

     行動を停止す。大毎記者命からがら逃げ来たりたるを収容。


  18日 前日我(当時私の小隊は独立小隊として山本部隊にあり)騎兵によりて偵察せられ

     たる固安城内の状況変化(17日夜敵残兵場内に潜入の形跡あり)の為、小隊を率い

     再偵察を命ぜられ、担架携行固安に前進す。場内閉ざされて入るを得ず。よって崩

     れたる城壁を登り、場内に入る。城壁上敵屍累々、流血を渉して場内に入る。重厚

     大建築物は悉く爆撃せられ、場内の光景惨たり。また敵屍累々たり。人影なし。

     凡そ白昼(夜は更なり)人影なき市街ほど薄気味なるはなし。場内隈なく捜索する

     も異常なく直ちに報告の為一部を引致して楡垡鎮に向かう。

     前方に銃声あり。即ち我が輜重隊と残敵と交戦中。間もなく止めり。

     報告を終わりて部隊入城警備につく。住人僅かに戻り来る。かくて固安生活三晩に。

 
  21日夜 固安発保定に向かう。途中敵襲ありしも幸い異常なく23日徐水着。


  24日 偵察の為保定へ向かう。午前7時50分、保定一里手前八里営着。目下大激戦中

     なり。

     第6司令部に連絡。その結果、この歴史的なる大決戦観戦の好機を得たり。

     8時15分、北城門重砲の為に破壊。歩兵の一部は人梯を以って突入を試む。

     9時15分、第14師団南及び南西の敵、退路を遮断。仝時第6師団攻撃前進開始。

          突撃。乱闘。仝45分遂に北城門上日章旗飜れり。

          萬歳。我が小隊は直ちに師団司令部と共にこれ等第一線部隊に魁て

          光輝ある保定入城をなす。

          途中見よ。皇軍勇士の名誉の戦死しある者尊きを。涙も遂に涸れ果て

          たり。宜なりこの一戦、第6師団の拂へる犠牲無慮一千五百。

          師団司令部は乗馬。我らはトラック。(新聞記者、大毎、東日、大東、

          朝日、報知、読売等は皆我が自動車に便乗せしめ、これが従軍記者の

          第一陣。従って真の涙の入城の写真はない。

          保定入城は翌日の写真が多い)入城後、私の方は直ちに西門を出て

          停車場に向かう。停車場を突破して構外にて敵の機関銃に見舞を受け

          た。弾丸なんてそんなに当たるものではない。

          まぐれ弾がこわいのだ。夕刻までに任務の偵察を終わり駅付近に

          村落露営す。(是の所が読売の写真)翌日更に残敵掃討。獲物は二匹。

          銃剣で。

保定停車場にて.jpg
   
  保定停車場の小山隊(読売新聞に掲載の写真)


  保定に三日、半ケ小隊を引致して定縣に前進。30日保定が敵の空襲を受け、残半ケ小隊の

  設置地(場外)より150米程の所にて高射砲隊やられ21名戦死。砲一門もやらる。時々

  この頃は、敵の飛行機も味を見せる。定縣より新楽。ここでも空襲を受く。保定にては

  取り逃がしたが、茲にては高射砲にて射止めたり。機尾より煙を噴いて真一文字に落ちる

  景色を想像せよ。

  定縣へ前進の際清風店駅付近にも一機射落とされたるがあり。


北支ー13.jpg


  東長壽、正定の後方勤務、太原攻略につき昔陽支隊の為、前進路構築の為元氏に前進。

  茲にて友軍和田工兵部隊がやられ、こちらが救援に一ケ小隊で勇敢に飛び込んだ。

  情報では敵は一ケ師団という。和田部隊も偵察隊だから70名位、こっちは高々一ケ小隊、

  無茶なようだが小山式では、だまって見殺しは出来ない。和田部隊は四人の将校のうち

  二人を失ったという。

  元氏から賛皇まで5里、こちらが知ったのは四時半。現場迄は行かれるか、出来るだけ

  自動車をすっ飛ばしてみたが、支那の悪路では着いた時は既に夜。尤も夜でよかった。

  あとで知ったのだが城のすぐそばまで行って、敵の話し声の聞こえる所までどんどん

  行っちゃった。敵も気が付かなかった。和田部隊の重傷者を収容しなければどうにも

  ならない。真暗でもあかりは禁物。部隊長和田中佐とも連携を取って力をつけなければ

  ならない。敵が後方遮断に出たという。そっちも警戒。人員が少なすぎて、これには流石

  に困った。漸く和田中佐が引揚て来たのに出会う。死体はどうにも収容出来ないと云う。

  止むを得ず其の儘後退だと云う。

  私なら死体の置き去りはしないつもりだが、本尊様がそう云うんだから仕方がない。

  その晩はその儘にして翌日砲兵の来援、歩兵の来援待って賛皇攻撃となった。この城は

  実に要害堅固なり。岩山の上に城、下が河原(この河原で和田隊がやられ、ここの川に

  私の手で架橋、血桜橋と命名)砲兵無くて攻撃は不可能。

  愈々、中一日於いて攻撃してみると、敵はもう大方退却していない。直ちに占領、

  29日入城。シャクに障ったと見えて和田隊が火をかけ、毎日毎日場内は火事。

  時々こっちの宿舎まで危い騒ぎ。


北支ー14.jpg


  賛皇から先は山西の山つずき、正丸峠みたいな全然道の無い所を自動車を通らそうという

  工事にしびれた。工事の帰りは敵襲とくる。山の峯から峯から下に賛皇城を見下ろしなが

  ら、赤い夕日をあびて自動車にて賛皇に帰還の時の光景。即ち「トーキー」を見る様だ。

  その中、敵の後方撹乱益々盛んとなり、遂に石家荘(軍司令部所在地)が危ないという

  騒ぎで直ちに石家荘に引上げ、ここの防塁工事。壕や鉄線網をいくら作ったことか。


北支ー15.jpg

   
  11月の18日には雪。丁度その頃は西飛行場で工事中(石家荘西方三里)太原を包む山々

  銀に輝きてあり。その景色の雄大なること句に絶す。重爆はその中を機翼連ねて洛陽爆撃。

  或いは太原方面に。今では重爆だけの編隊で行く。すっかり支那空軍をなめている。

  朝日の朝風号も微発をくらって来ている。大体陸軍は新式は持っていない。


  11月24日 黄河作戦の為邯鄲大名に前進。架橋、残敵掃討。第一線百八師団、十四師団は

       大名にて鳴りを潜めて待っている。愈々、宋哲元軍掃討戦は12月7日火蓋を切

       る。重砲数十発にて簡単に敵兵二万は武装解除。気の乗らない事ひどすぎる。

       歩兵は完全に失業。邯鄲では歩兵は運動会だ。


  今日また石家荘へ引揚げてきた。私の中隊第二小隊が定縣、新楽あたりでやられた。

  戦死は上等兵一名、その他一切状況不明、第二小隊長は私の戦友坂倉君。心配でならない

  がどう仕様もない。これから何をするか、どっちへ行くか今日は未だわからない。然し

  十日に南京もおちた。お手紙の通り先ず北支は一段落、後は残敵掃討だが、これが問題だ。

  弱いとみなければ出てこない敵だから困る。軍刀にも賛皇で刃こぼれが出来た。

  あとは支那人一般の状況になるが、これは省く。大体、支那人民は戦禍には慣れて諦めが

  良い.。良く日本人の為に働く。日本語も大分使うようになってきた。(子供は特に)


北支ー16.jpg

汽車移動.jpg


  今こちらは零下七度程度。内地で考える程ではない。天津あたりは暑いそうだ。

  私たちは皆んな元気です。ご安心下さい。青年学校の連中にもよろしく。寒いし、国家

  非常時だし、年の暮れだし、なかなか大変でしょう。ご自愛ご奮闘を祈ります。

  おうちの皆さん、親類中の皆さんによろしく頼みます。こう書いて一々お知らせすること

  は出来ない。終りに今夜の石家荘はとても良いお月様が出ています。名物犬(支那には犬

  が多い)の啼き声も聞こえず夜は更けています。       

                           昭和12年12月15日午後12時半   

                              北支派遣加納部隊本部
                               倉田部隊小山隊 小山太郎
                       
   

   『小山次郎様 喜美重様 宛』

  11月8日附仝27日附(航空---11月29日石家荘着)昨日落手。楽しく拝見しました。

  お目出度う。簡単に祝辞を述べます。保坂の皆様にもよろしく。 

  まだ邯鄲にいます。北支随一と自他共に許す架橋を今日終わりました。欄干も立派に付けま

  した。二度とこんな立派な橋は架けられないでしょう。「靖国橋」と右の柱に「昭和12年

  12月10日(私の誕生日)竣工近工倉田部隊小山隊」と左柱に刻り付けてあります。

  この所、連続してよく作業に奮闘しましたから明日は休養を実施したく考えています。

  陣中で部下と共に誕生を祝いたいと考えています。

靖国橋竣工記念.jpg

  靖国橋架橋完成記念(邯鄲)


  明日は丁度、軍楽隊の演奏もあります。まるで私のために来たようなものです。

  邯鄲夢の枕というから、ここでは余程よい夢を見るかと思っているが、てんで夢など見る

  間がない。枕にしてしまうから見えないのかも知れません。黄河攻撃は七日に始まり久し

  ぶりで砲の音を聞いたが、音の途端に敵は二万も武装解除したとか。真に張合いのない

  戦争となって終いました。陣中では年賀状は取扱はぬ事になりました。

  先日こちらに来る時小包を受け取りましたが、中に岡野、荒川、大和、小川代等の尽力と

  思いますが、百五十名ばかりの署名入りの国旗が這入っていました。(今部屋の壁にかけ

  て毎晩眺めています)大阪の辰夫君の署名(遥かに大兄の御武運を祈る 菅原辰夫)や

  田畑の(神かけて凱旋の日を待っているぞ 田畑陽)など特に懐かしく思いました。

寄せ書日章旗.JPG

  寄書き日章旗


   『写真裏書き』

   昭和12年12月11日 於邯鄲

   一番上に翻っている国旗が先日送って頂いた皆様お心盡しの日の丸です。

   坂倉第二小隊長が一昨日の戦闘で名誉の重傷を負うた。詳細は不明。私の方は即日

   石家荘に帰る。一同無事。                  12月13日 太郎 



  近頃は防寒具で皆んな「ダルマ」のように丸くなっている。寒さは零下7度内外ですが、

  湿度の関係か寒暖計ほど寒くないのが不思議です。

  部下一同については実によくやってくれます。とても現役兵などの比ではありません。

  皆んな子供の3人以上もある老勇士です。朝の集合なども8時と命じてあるのに7時半

  にはすでに軍装をつけて出かけます。また父兄達からは、よく手紙や状況報告やら来ます。

  一番よいのは兵の子供等の便りです。その外、誰に手紙が来ても皆んな読んで聞かせてく

  れます。小山福太郎君の戦死についても皆んな「くやみ」を述べてくれました。

  炊事では、私の分だけ別に飯を炊いて呉れるし、ひと工面の酒を飯盒に一杯づつは必ず届

  けて寄越します。(但し炊事に加給品のある時だけ)中隊中一番の生活です。中隊長には

  気の毒みたいですが仕方がない次第です。

  賛皇で手に入れた敵の太鼓を未だに持ち廻って(かくて荷物は増える一方、青龍刀、

  機関銃、鋒槍、バタヤの如くにガラクタを持ち廻っている)時折、賑やかに騒ぎます。

  軍歌も皆んな上手に(老人だから新規練習を要する---軍歌集を送れたら頼む)なりました。

  「ああ戦友」「慰問袋」---これの節は「ああ戦友」で歌っている---など良い歌です。

  「ああ戦友」は出征の時、朝鮮の大邱の女学生に歌って貰って感激の涙をこぼした歌だけ

  に誰もが習いたく、この頃、漸く皆んな中の記憶を結合して纏めたものです。

  話は涙、涙に戻り変ですが、歌で感激では釜山の内鮮児童達の軍歌でした。小さい国旗を

  打ち振りながら「戦友」「皇軍の歌」を唄って歓送してくれました。

  聖上からお煙草も戴きました。慰問袋も一度預けて貰いました。子供の絵、紙フーセン、

  色々のものが一同を喜ばせました。

  既に気の早いのは凱旋の日の村人への挨拶の文句を私に作らせ、早速練習を初めて拍手を

  受けています。第二分隊など全員卒業して終いました。実に無邪気で元気です。皇軍の強

  さです。然し、邯鄲へ来てからは凱旋熱はすっ飛んでしまいました。

  今居る家の要図を書きます。幾分陣中の様子を御想像下さい。まんざら悪くないものです。


北支ー17.jpg

  今居る家の要図



   学校の皆さん、小泉さん、田中さん、課長さん、桃林堂さん、御一同様によろしく。

   名古屋さんも御壮健です。やはり忙しい様です。

                              12月9日午後12時10分  太郎
タグ:日華事変
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OBON2015 工藤

大変貴重なものを拝見いたしました。ありがとうございます。
by OBON2015 工藤 (2016-02-16 05:50) 

Letha

私はこの投稿を除いて、ブロガー愛好家に関する多くの記事やレビューを読んでいます
実際には良い記事、それを維持する。
by Letha (2017-10-16 07:14) 

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