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「三国第一山」の大鳥居扁額と墨跡
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木造では日本で最大とされる北口本宮冨士浅間神社の「冨士山大鳥居」は古代に建立され、

以来、建替えや修理が行われてきましたが、江戸時代後期からは、60年に一度改修工事を

行うという慣例になりました。

昨年(平成24年)はその節目の年にあたり大規模な工事が執り行われました。



 改修工事後の大鳥居


それに伴い「三国第一山」の扁額も新調されました。


以前の扁額


 新しくなった扁額


 甲斐国志によれば扁額に関しては下記のように記してあります。

◇ 額(竪七尺五寸幅四尺七寸五分)文字三国第一山(曼殊院宮無障金剛入道二品親王良恕書、

  寛永十三丙子年(1636)二月十七日、秋元但馬守寄進古額あり、筆者不詳)


扁額との関連は不明ですが一幅の墨跡があります。

良恕親王の筆で、不思議なことに書かれた日も同じです。

持明院流という書法の美しさが感じられます。


 墨跡




良恕親王

親王は陽光院太上天皇第三皇子で御母が新上東門院晴子、勧修寺内大臣晴秀公の女である。

初名は勝輔、法名は覚円のち良恕。幼称は三宮、号は忠桓。後陽成天皇の弟である。

天正2年(1574年)ご誕生、同15年に曼殊院門主となり、北野神社別当に補せられた。

青蓮院尊朝親王に受法潅頂し、元和7年(1621年)に二品に叙せられ、護寺僧を務められた。

元和8年には後水尾院の綸旨を賜り清涼殿に於いて七仏薬師御修法の御導師を務められ、

寛永16年(1639年)には第百七十代天台座主となり40年来紛失したままであった本尊を

修復して、開眼供養した。また、元亀2年(1571年)信長によって焼亡された延暦寺の

再興にも力をいたされた。

書は、持明院基孝に文禄3年(能書七箇条伝授)・慶長2年(入木道灌頂伝授)に伝授し、

多くの門弟に教えている。後水尾院にも能書七箇条伝授された。

当時、宮中での御歌会・御連歌には欠かせぬ歌人の一人であり、また学問一般の研究にも

励まれ『厳島参詣記』・『伊勢聞書』・『源氏聞書』・『詩講釈聞書』・『三体詩抜粋』・

『同聞書』などを残している。

また、良恕親王は桂離宮を造営した八条宮智仁親王の兄であり、桂離宮の笑意軒の額や

鎌倉の鶴岡八幡宮本宮の楼門の扁額「八幡宮」を揮毫し、日光山奉納の『古事記』書写の

奥書を記し、その他諸国の天満宮に社名の額を残している。

親王は、戦乱に明け暮れた織田、豊臣の時代から平和を取り戻した江戸時代初頭にかけて

在位された後陽成院をめぐる政治的文化的なグループの一人であり、その後の後水尾院を

中心とした文芸復興の先駆をなす、最高の教養人の一人であった。

寛永20年(1643年)70歳をもって入滅され、諡号を龍華院と称する。




 桂離宮の笑意軒の扁額




 鎌倉の鶴岡八幡宮本宮の楼門の扁額