記 川越高校、旧制中学山岳部90年記念誌をネット上で拝見しました。
大正11年富士登山の時の写真及びネガが家にありましたので、記事に貼り付けてみま
した。集合写真では各自がムシロを持参している姿が面白いですね。
大正11年 富士山 富士吉田~頂上~御殿場
七月二十三日 川越から吉田 久下敏治
富士登山隊は、一行四十名。高松、西川、間中、三先生の引率の元に、校長、諸先生の見送り
を受けて朝五時三十分、川越停車場出発。国分寺からの列車は、盛夏の登山者を満載して九時
三十分大月駅に到着した。
一行はここから一里引き返して猿橋を見学する。桂川の上流の断崖上に架せられた三大奇橋の
一である。橋上から水面までは百五十尺。下は深淵となり小石を落とすと、一秒、二秒、三秒
・・・、しばらくして下方で僅かな音がする。
ここから一里を戻り、大月から(富士)吉田まで五里余り。道は自動車電車が通じているが、
我らはこの道を歩いた。日が照り付けて暑い。
途中に桂川発電所がある。山の急斜面の四大鉄管は、水一滴もらさずに東京市の電車の動力を
供給する。渓流沿いには稀に避暑客がいるが、大きな魚網を下げている漁夫もいる。
谷村を通過して富士山が見えてくる。「心当てに見し白雲は、麓にて思わぬ空に遥か富士の
峰」。近づくに従って雲はいつしか晴れた。大自然の絶景に感嘆し、吉田の宿に午後六時着。
七月二十四日 吉田から頂上まで 小山太郎
午前四時に起きる。天気はいい。六時に出発。爽やかな朝の気に、鈴の音が響く。浅間神社の
裏に馬車の待合所があって、客もいる。その森を出ると富士道。中の茶屋を経て馬返しまでの
一里半は草原だった。
馬返しの先は山道になる。一合目の鈴ヶ原神社、二合目の小室浅間と役行者堂、二号五勺の
伏室、三合目の食堂を経て、四合目大黒天を過ぎ、五合目に達する。その上室で十時四十分
昼食にする。
五合目は「天地の境」で森林から潅木帯になる。地形は一変して開け眼下に河口湖、西湖。山中湖は三日月形をしている。六合、七合は更に険しく「六根清浄」を唱え、「頂上へ」の野心も消え、心は無心になる。八合は須走り口と合流するところで、名ばかりのホテル救護所がある。傾斜三十度の道は「胸突き八町」だ。
難関を突破し九合目へ着いたのは四時。ここで休憩し水筒のサイダーを飲む。見れば互いに顔面蒼白となり、唇は紫色になっている。白衣の登山者は遥か下まで列をなしている。再び出発すると、頂上の久須志神社の鳥居はすぐ上に見える。しかし稲妻型の道はなかなか尽きない。少し足を早めるとようやく四時四十分、頂上に達した。
この嬉しさは何とも言えない。日本アルプス連峰が見え、関東の山はひれ伏している。「聞きしより、思いしより、見しよりも、登りて高き宝は富士の峰」。この歌の意味が初めて分かった。頂上神社に参拝して、印をもらい、石室名物の甘酒で腹を温める。思わず二三杯続けた。一杯十銭は少し高い。
室を出て、今夜の宿舎山口屋ホテルに行く。すぐ隣の木賃宿だ。荷物を置いて噴火口へ行く。
深さ百五十米。直径約十三町。周囲に八峰が巡る。夕食後寝た者が多かったが、有志で噴火口の内輪回りに出た。大日岳の河原は静寂として、噴火口に近い石の上では、富士講者らしい夫婦が落日に向かって祈祷している。
神社まで戻って金明水へ降りる。ここで西川、間中先生とも一緒になった。空は雲に覆われて星一つ見えないが、金水明も静かだ。雪を取ってかじりながらいく。西安河原から外輪道へ登る頃、夜の帳が山を覆ってきた。剣ヶ峰の背後から大日岳を経て戻ったのは八時頃だった。床に就いたがむさ苦しい。
七月二十五日 下山 浅見幹雄
混雑して寝苦しい夜だったが、四時にもう起き出すという元気のいい連中もいる。入り口を開けると冷たい空気が入ってくる。高山の朝は静寂だ。かまどの甘酒で腹を温めた。
「日の出を拝むのだから起きないか」
急いで小屋を出た。入り口の寒暖計は華氏六十度。強力も番人も皆起きていた。
「もう直きですよ」
東の空が明るい。間もなく水平線が赤くなり、真紅の海と化した。火山岩の山肌が赤く照らし出された。下から行者も登ってくる。突然「ドドン、ドドン」という勇ましい太鼓が神社から鳴り響く。見よ、ご来光だ。太陽光線は雲海の上に投げられる。箱根の山は雲海の上に少しだけ顔を出していた。
朝食後、剣ヶ峰を背景に写真を写して、お鉢周りをする。木曾の山脈から槍ヶ岳、針ノ木峠、白馬、御嶽など日本アルプスの山々は清らかだ。その昔の噴火では、一昨日の猿橋までこの溶岩は流れ出していた。溶けない万年雪を杖で突いて、喉を潤す。
剣ヶ峰の最高点に立つ。最高点よりも、私は五尺さらに高い。快哉を叫ぶ。
七時二十分、下山を開始する。八合目からは有名な砂走りで、草鞋を幾重にしても、切れるし、滑る。二合目辺りまで草木はない。太郎坊に着いた。ここには馬車が通っている。御殿場までは三里。正午過ぎに御殿場に着く。一時五十分の汽車で、午後七時四五分に川越に着いた。校長先生、その他の先生に迎えられて解散した。
大正11年富士登山の時の写真及びネガが家にありましたので、記事に貼り付けてみま
した。集合写真では各自がムシロを持参している姿が面白いですね。
大正11年 富士山 富士吉田~頂上~御殿場
七月二十三日 川越から吉田 久下敏治
富士登山隊は、一行四十名。高松、西川、間中、三先生の引率の元に、校長、諸先生の見送り
を受けて朝五時三十分、川越停車場出発。国分寺からの列車は、盛夏の登山者を満載して九時
三十分大月駅に到着した。
一行はここから一里引き返して猿橋を見学する。桂川の上流の断崖上に架せられた三大奇橋の
一である。橋上から水面までは百五十尺。下は深淵となり小石を落とすと、一秒、二秒、三秒
・・・、しばらくして下方で僅かな音がする。
ここから一里を戻り、大月から(富士)吉田まで五里余り。道は自動車電車が通じているが、
我らはこの道を歩いた。日が照り付けて暑い。
途中に桂川発電所がある。山の急斜面の四大鉄管は、水一滴もらさずに東京市の電車の動力を
供給する。渓流沿いには稀に避暑客がいるが、大きな魚網を下げている漁夫もいる。
谷村を通過して富士山が見えてくる。「心当てに見し白雲は、麓にて思わぬ空に遥か富士の
峰」。近づくに従って雲はいつしか晴れた。大自然の絶景に感嘆し、吉田の宿に午後六時着。
七月二十四日 吉田から頂上まで 小山太郎
午前四時に起きる。天気はいい。六時に出発。爽やかな朝の気に、鈴の音が響く。浅間神社の
裏に馬車の待合所があって、客もいる。その森を出ると富士道。中の茶屋を経て馬返しまでの
一里半は草原だった。
馬返しの先は山道になる。一合目の鈴ヶ原神社、二合目の小室浅間と役行者堂、二号五勺の
伏室、三合目の食堂を経て、四合目大黒天を過ぎ、五合目に達する。その上室で十時四十分
昼食にする。
五合目は「天地の境」で森林から潅木帯になる。地形は一変して開け眼下に河口湖、西湖。山中湖は三日月形をしている。六合、七合は更に険しく「六根清浄」を唱え、「頂上へ」の野心も消え、心は無心になる。八合は須走り口と合流するところで、名ばかりのホテル救護所がある。傾斜三十度の道は「胸突き八町」だ。
難関を突破し九合目へ着いたのは四時。ここで休憩し水筒のサイダーを飲む。見れば互いに顔面蒼白となり、唇は紫色になっている。白衣の登山者は遥か下まで列をなしている。再び出発すると、頂上の久須志神社の鳥居はすぐ上に見える。しかし稲妻型の道はなかなか尽きない。少し足を早めるとようやく四時四十分、頂上に達した。
この嬉しさは何とも言えない。日本アルプス連峰が見え、関東の山はひれ伏している。「聞きしより、思いしより、見しよりも、登りて高き宝は富士の峰」。この歌の意味が初めて分かった。頂上神社に参拝して、印をもらい、石室名物の甘酒で腹を温める。思わず二三杯続けた。一杯十銭は少し高い。
室を出て、今夜の宿舎山口屋ホテルに行く。すぐ隣の木賃宿だ。荷物を置いて噴火口へ行く。
深さ百五十米。直径約十三町。周囲に八峰が巡る。夕食後寝た者が多かったが、有志で噴火口の内輪回りに出た。大日岳の河原は静寂として、噴火口に近い石の上では、富士講者らしい夫婦が落日に向かって祈祷している。
神社まで戻って金明水へ降りる。ここで西川、間中先生とも一緒になった。空は雲に覆われて星一つ見えないが、金水明も静かだ。雪を取ってかじりながらいく。西安河原から外輪道へ登る頃、夜の帳が山を覆ってきた。剣ヶ峰の背後から大日岳を経て戻ったのは八時頃だった。床に就いたがむさ苦しい。
七月二十五日 下山 浅見幹雄
混雑して寝苦しい夜だったが、四時にもう起き出すという元気のいい連中もいる。入り口を開けると冷たい空気が入ってくる。高山の朝は静寂だ。かまどの甘酒で腹を温めた。
「日の出を拝むのだから起きないか」
急いで小屋を出た。入り口の寒暖計は華氏六十度。強力も番人も皆起きていた。
「もう直きですよ」
東の空が明るい。間もなく水平線が赤くなり、真紅の海と化した。火山岩の山肌が赤く照らし出された。下から行者も登ってくる。突然「ドドン、ドドン」という勇ましい太鼓が神社から鳴り響く。見よ、ご来光だ。太陽光線は雲海の上に投げられる。箱根の山は雲海の上に少しだけ顔を出していた。
朝食後、剣ヶ峰を背景に写真を写して、お鉢周りをする。木曾の山脈から槍ヶ岳、針ノ木峠、白馬、御嶽など日本アルプスの山々は清らかだ。その昔の噴火では、一昨日の猿橋までこの溶岩は流れ出していた。溶けない万年雪を杖で突いて、喉を潤す。
剣ヶ峰の最高点に立つ。最高点よりも、私は五尺さらに高い。快哉を叫ぶ。
七時二十分、下山を開始する。八合目からは有名な砂走りで、草鞋を幾重にしても、切れるし、滑る。二合目辺りまで草木はない。太郎坊に着いた。ここには馬車が通っている。御殿場までは三里。正午過ぎに御殿場に着く。一時五十分の汽車で、午後七時四五分に川越に着いた。校長先生、その他の先生に迎えられて解散した。